"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第三十三夜】

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戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)



■二月二日のトリビア

 持ち前の器量と度胸で天下を獲った『太閤』こと
 豊臣秀吉。その智恵は犯罪捜査にまで
        発揮され、盗事件を見事解決している
。  



■器量天下一、太閤殿下若き日の安楽椅子探偵

 さて、今年もはや暦が一ヶ月終わり気づけば二月。年度末が近づき、学徒の方は一年間の学業の集大成、社会人の皆様は新たな一年へ向けて業務に勤しんでおられることでしょうが…。


 先月、当ブログは開設以来初となる月間7,000Hitを達成いたしました。

 これも読者の皆様方による御贔屓のたまものと筆者も歓喜ひとしおだったのですが…――少々分析などしてみたところ、やはり戦国時代に幕を降ろした難波の太閤殿下は偉大なのか…『豊臣吉』に関連する検索で御覧になられた方が非常に多かった模様。
( ・(,,ェ)・) ここ数ヶ月程度の傾向ではなく、ずーーーっとなんです。特に多いのは『豊臣秀吉の性格』で検索された方。当ブログのこの記事が特に人気でした。さすがは上司にしたい戦国武将No.1の人誑し、没後三百年強が過ぎても戦国時代Fanの心を魅了してやまないようですね。



 そこで、今日は日頃の御愛顧に感謝いたしまして、『豊臣吉』に関するエピソードをひとつ御紹介。
 まだ織田信長の元で"猿"と呼ばれていた身分卑賤の頃、持ち前の器量を発揮し名探偵コナンばりに難事件を解決した太閤殿下のドヤ顔を御覧下さいませ。

    

 1563年(永禄六年)、秀吉二十七歳の秋。
 今川義元を桶狭間の合戦、奇跡の大逆転で討ち取ってから三年、織田信長は精力的に軍事活動を展開。特に舅・斎藤道三ゆかりの国である美濃(現岐阜県南部)を支配下におさめるべく、当時の支配者であった斎藤龍興と影に日向に争いを繰り返し、信長の命を受けた家臣達は夜に日を継いで働いていました。


 そんなある日のこと、信長の馬廻りだった福富(ふくずみひでかつ)が評定を終えて退席しようとした際、自身の刀の付属品である笄(こうがい)が紛失していることに気づきました。
( ・(,,ェ)・) 馬廻り(うままわり)、と聞くと馬の世話をしてる身分低い人というイメージがありますが、信長の馬廻りとは公設秘書の様なもので大変な部署です。後の堀秀政や森蘭丸の先輩、といえばわかりやすいでしょうか。


 当時は大殿の御前会議である評定の前には、刀の大小は他の同輩達と一緒に、部屋前の廊下に並べて置いておくのが定石。

 間違えて誰かが持っていったなら刀ごとなくなるはずですし、なにより秀勝の笄は金製の柄に見事な雲竜の彫り物が施された立派なもので、『福富平左衛門尉の金龍の笄』と言えば、誰でも知っているものでした。




 こういうとき、真っ先に疑われるのは人望が薄くパッと出のり上がり者。この条件に該当し、同じ評定に参加していた人物には当然ながら疑いの目が降り注ぐことになります。

 誰かだなんて言う必要もないですよね、草履取りからトントン拍子に出世し、しかも上司に取り入る心理戦に長けていた秀吉です。いちばん同僚に嫌われるタイプですので仕方ないでしょうか。



 ――さぁ、誰も面と向かっては言いませんがあっちの影でひそひそこっちの影でボソボソ。日に日に秀吉の悪評が家臣達の間に広がっていきます。別に盗った証拠もないのに、このままでは下手人となってしまいます。

 そして上司は誰あろう…戦国時代で最も、規則や掟法に厳酷なあの織田信長です。
 幾ら気にいられてるからって、このままじゃマズイ。信長様が短気を起こした日には叩ッ斬られてしまう。



 …そう考えた秀吉が取った行動は、真犯人を捕まえることでした。あれこれ言い訳するよりも話が早く、確実に信頼を取り戻すたったひとつの鮮やかな方法です。しかも、そこは智恵者たる秀吉の面目躍如…安楽椅子探偵を地でいく方法です。
( ・(,,ェ)・) 『安楽椅子探偵』とは、現場に行かずに椅子に座って、現状証拠と推理だけで事件を解決するタイプのミステリのことです。某コナン君ではなかなか御目に掛かれない種類の、筆者のセンスを問われるものですね。




 『いったいなぜ福富秀勝の金龍の笄は盗まれたのか。

 自分で使う? いや、あんな織田家中でも有名なものを自分の刀の鍔に挿した日には、一目瞭然に判ってしまう…そうではないだろう。

  となれば、売って金に換える利目的が狙いに違いない。

 人知れずに売りさばく必要がある。金に換えるのならば織田家と付き合いのある商人は避けて…おそらくは市井の一商家へ、こっそり持ち込むのではないか。』



 秀吉の頭脳は明晰に動きました。
 下手に家中の調査などせず、まっさきに織田領下でも随一の貿易港都市だった津島へ赴き、地元の大店から小売店舗主まで余すことなく足を運んで、懇切丁寧に説明します。


『これこれこういう理由で、恐らく近いうちに金龍の笄を売りに来る、もしくは質入に来るものがあるはずだ。
 もし来たら、直ぐには買い取らずにわしへ連絡して欲しい。御礼として金子・十両(約260万円!!)を差し上げよう。』


 もちろん、当の秀吉にそんな大枚をはたく金はありません。

 
ですが、真犯人が捕まればそれくらいの褒賞は手に入るはずです。そして、信頼よりも金で動くのが戦国の世も平成の世でも商人の常、ほどなくして秀吉のもとに『例の金龍の笄を売りに来た者がいる』と通報が入りました。


 秀吉が、その者を引ッ捕まえて金龍の笄を取り戻し信長に突き出したのはいうまでもありません。人の心理を見事に突いた、後の人誑し・豊臣秀吉ここにありといわざるを得ない、あざやかな作戦勝ちでした。



 そして、転んだらタダでは起きないのもまた豊臣秀吉一代のケレン味。

 信長に拝謁した秀吉はひれ伏したまま涙に暮れ、今回の盗難事件で自身が容疑者になった屈辱を訴えます。



 『こたびは、拙者が身分も家中も貧しいばっかりに盗人の濡れ布を着せられるはめになってしまいました。

 私は信長様に誠心誠意、忠義を尽くしてお仕えしているのに…こんな念で、くやしいことはありません!!!』



 さすがの第六天魔王も、この哀訴には気の毒に思ったのか…後に秀吉の元に報奨金として金子・百両(約2600万円!!が下賜され、

 さらに知行百貫(年間約一千万円の米収益がある土地)が追加されることになりました。

 


 後の太閤豊臣秀吉、他人に百倍する機転と器量の持ち主であることを広く織田家中に知らしめた御話です。
 

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"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第三十二夜】

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■注意、汚い話題です。お食事中の方はブラウザの戻るボタンで回れ右を推奨!!


 戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■一月十七日のトリビア

 『クソくらえ!!』という、小悪党の捨て台詞で
 おなじみのこの言葉、実は戦国時代に敵の
        密偵の口を割らせる問法が由来である
。  



実際に喰らわされちゃ堪らないけど、やっちゃうのが戦国乱世

 映画やドラマだと、主人公やそれに近しい主要人物が敵に捕まったりすると自力脱出フラグや仲間の救出策戦フラグが立つものですが…――ところがどっこい、そうはいかないのが戦国時代。


 『鬼平犯課帳』などの捕物系時代劇で、町奉行所や火付盗賊改が兇悪犯を捕まえると、仲間の居場所や余罪を追及するために厳しい拷問を加えている場面が映ることがありますが…――江戸の町というのは存外に平和だったらしく、ああいった酸鼻を極める様に過酷な拷問はあまり御目に掛かれなかったそうです。
( ・(,,ェ)・) 江戸時代の刑法だと、押し込み強盗と火付け強盗は問答無用で死刑だったため、よほど綿密に腹を括ってことにあたらなければリスクとリターンが釣りあわなかったんでしょうね。兇悪な強盗よりも、詐欺や美人局など、割と知的犯罪が多かったんだとか。



 ですが、文字通り生き馬の目を抜く戦国時代となれば話は別…間諜や偵察で敵地に潜り込んでいた密偵、また秘密の連絡事項を受けて城から城へと隠密移動する伝令が捕えられたりした場合、口を割らなければ常軌を逸する様な凄まじい問が施される場合がありました。

    

 とりあえず縄で自由を束縛したあと滅多打ちにされるのは御挨拶で、それでも口を割らなければ逆さ釣り、腰をエビゾリに固定して釣り上げる『海老責め』、正座させた膝の上に巨大な石を置く『石抱き』。

 これでも駄目なら爪の間に竹串を刺し込んだり、その上から石鎚を振り降ろしたりと、読んでる方も書いてる方も厭になってくるわけですが…――それら拷問方でも一番兇悪で、とくに武士たる者が受けるとほぼ確実に口を割ると言われていたのが、『』(くそどい)という方法です。



 …だいたい想像はつくとは思いますが、敢えて説明すると…捕まえた敵の密偵を仰向けにして、その顔へ延々と糞尿を掛け続けるという人権もジュネーブ協定もあったもんじゃない、身の毛のよだつ拷問方法です。


 単純に臭い、汚いということも強烈ですが…排泄されて時間が経った人糞というのは雑菌の巣窟ですので、口腔・鼻腔は勿論、耳孔や傷口に入れば様々な悪影響、放置されれば死に至る様な状況に陥ります。

 そして、やはり花は桜木、人は武士。粗野で横暴な印象もありますが礼儀や誇りには人一倍こだわった戦国武士ならば、絶対に耐えられない屈辱でもあります。

 武士の面に糞なんか吹っ掛けられた日には、たいていの者は降参して口を割り、洗いざらい白状しまったのだとか。


 この『糞問い』の拷問に掛けることを『糞を食らわす』と言ったそうで、これが後々に悪態や罵倒で言う『クソくらえ!!』の語源になったのだそうです。
( ・(,,ェ)・) 例によって、この手の故事成語には複数の由縁由来説があります。これが決定稿というわけではありませんが、有力な語源らしいです。



 敵に捕まった主人公の仲間や部下が、捕虜になるくらいならと万歳突撃したり自決するのもまた、映画や漫画の御約束ですが…――まぁ、こんな血も涙も無いような拷問を受けるくらいなら潔く死んだほうがマシ、なんでしょうねぇ…。

 

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戦国武将と官位について。【前編】

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■12/28 文字ばっかりで目が痛くなりそうなので挿絵を追加。ちょっとだけ追記。

■12/21 07年大河『風林火山』第28回 両雄の死 後編があまりにも長大化していたため、戦国与太話を分割しました。



戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)



戦国武将と官位について。【前編】 

  さて、今日は久方振りに戦国時代に関する歴史痛的コラムをお送りしようと思います。

"…前編と銘打ってるようだが、編がはたしてあるのか如何か "などという野暮な突っ込みは、控える若しくは無しにおいいたします。(自爆。  

 先ずは、2007年当時に赤髭のブログを御贔屓にして頂いていたあきみさっちさんという方より頂いたこのコメントから御覧下さい。

 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
   板垣駿河信方。    甘利備前虎泰。  
   この、姓と名の間にある「○○守」という官位?は、
   どんな位置づけのもので、誰がどうやって決めるのでしょう?

   なぜ駿河、なぜ備前?地理的に関係なさそうなのに。
   真田幸隆様は弾正忠(「○○守」じゃない?)。跡を継いだ
   昌幸は安房守。世襲というわけでもないのですね。  
   気になって仕方がありません。 

┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

 …なるほど、戦国武将の姓名というのは、調べて見ると大抵の場合こう いった官位や『〜次郎』とか『〜三郎』といった通称の様なものと併せて 呼ばれる事が多いようです。これは一体何を意味するのでしょう。



 簡単に言ってしまうと、その姓と名の間に挟まっている『駿河守』とか『弾正忠』と呼ばれるものは、その武将が朝廷から与えられた、もしくは自称した官職です。また、『源次郎』とか『平三郎』とか言うものは『仮名』(けみょう)もしくは『通称』と呼ばれる、その人のもう一つの名前です。


 なぜ、名前の他に仮名や通称が必要だったのかといえば、古来から日本には『言信仰』(ことだましんこう)という宗教的な考え方があり、人の実名…武田晴信は"晴信"、山本勘助は"晴幸"といった、今日で言うところの名前の下の方はみ名』もしくは(いみな)と呼ばれ、他人に呼ばれるのは避けられる習慣があったからです。

 早く言えば『人の名前には魂や霊的な力が篭められていると信じられ、軽々しく呼んではいけない』と考えられていた訳で、この考え方のことを(ひき、ひい)といいます。
( ・(,,ェ)・) 言霊信仰はもともと中国から伝来された思想で、朝廷や貴族階級にはかなり早い時点で浸透していました。ことし酷い目にあった平清盛も、平相国(相国とは太政大臣の唐名)と呼ばれていましたよね。



 戦国時代にもこの習慣は続いていました。よく、歴史ドラマなどで豊臣秀吉が主君の織田信長の事を『様!!』と呼んだり、同僚の明智光秀の事を『殿!!』と呼ぶシーンがありますが、あれは本来であれば非常に失礼な事です。
( ・(,,ェ)・) これが「意図的に無視されている時代考証」です。日本の時代劇には現代風に味付けする際に結構、当時の常識を削っているケースがあります。『和装時代の日本人男性は、歩くときに右手と右足、左手と左足が同時に出てた』『中村主水とかの町奉行所の同心は一人で外を出歩かない』とかですね。


 その人の『名前』を呼称する権限があったのは、当時では普通『自分の主君・上司』か『父親など、自分より目上の親族』だけにられていました。
 大河『風林火山』でも、武田晴信を『晴信』と諱で呼んでいたのは父親であった武田信虎と母親である大井夫人だけで、他の家臣達は一貫して『御館様』と呼んでいます。
( ・(,,ェ)・) この考え方は、時代が下って江戸時代半ばになるともっと顕著になり、たとえ殿様でも家臣の忌み名をうかつに呼ばなくなっていったようです。明治天皇に仕えた土方さんという人の回想によれば、明治天皇は決して臣下を忌み名では呼ばなかったそうです。ドラマなどでも伊藤博文のことを『伊藤』と呼んだりしてますもんね。

     

 大河『風林火山』ではそういった歴史考証を踏まえて、武将達はたいていの場合『お互いの姓+殿』で呼んでいましたが…武田家では板垣家や甘利家は由緒正しい親類衆。
 きっとかなりの人数が家臣として輩出されていたはずですから、躑躅ヶ崎館で『板垣殿ー!!』と呼ぶと、一斉に何人もの武将達が振り向いて『え、何?( ;・`ω・´)゛となる可能性があります。

 こういった場合も踏まえて…当時の上流階級では他人の名を呼ばなければならない場合、『名字あるいは仮名や通称、または官職名で呼ぶ』のが礼儀とされていました。

 
信長のことを織田弾正忠、武田信玄のことを武田大膳大夫。毛利元就なら毛利陸奥守、直江兼続なら直江山城守といった感じですね。敵将を呼ぶ場合などでも、よほど怨恨関係が深くなければこれを踏まえるのがマナーだったようです。
( ・(,,ェ)・) さらに文章などで書く場合、省略して『名字一文字+通称一文字』とか銘記されることもあったようです。たとえば、木下藤吉郎秀吉なら"木藤"、明智十兵衛光秀なら"明十"。三好筑前守長慶なら"三筑"。みんな大好き松永弾正少弼久秀なら"松弾"です。


 そんな理由で、戦国武将達は諱の他に必ず通称か仮名を持っていたのですが…やっぱり人間偉くなると書きが欲しくなるもの。戦国武将達にとって憧れる肩書きといえばやはり『朝廷の官職』でした。

 古い物語を紐解けば、戦国武将が憧れる肩書きというのはやはり名高い過去の武人達が貰った官職です。

 奥州で起きた叛乱事件『前九年の役』『後三年の役』などで大活躍した源頼義・源義家親子や、平将門の乱で活躍し、乱を平定させた藤原秀郷
 今年の(残念な結果に終わった)大河の主役、瀬戸内海の海賊退治や保元の乱などで叛逆者達をバッサバッサと撫で斬りにして名を挙げた平忠盛・平清盛親子などなど。

 戦国武将達は、数多の合戦で手柄を挙げて朝廷の官職に就き、出世栄達していった彼らの様な活躍に憧れて、自分達もそうありたいと強く想いました。一地方に住む『何何処の〜太郎さん』や、『無位官の〜次郎さん』、そんな田舎侍な土豪のままでは終わりたくなかったのです。



 だからこそ、多くの戦国武将達は近隣の敵対勢力と戦って知名度を上げ、勝利することで得た富を朝廷に献金することで、昔の英雄達のように朝廷の官職に就く事を熱望しました。

 過去の武人達は兵衛府衛門府といった軍事力で天皇に仕える官職を授かる場合が多かったので、一番指名率が高かったようです。


■初鹿野伝右衛門。彼の諱は"忠次"で、名前の様に見えるのは 伝 右衛門尉、つまり衛門府の上級官吏ということになる。

 そう、戦国武将の通称に多い『〜兵衛』や『〜衛門』、あれは名前じゃなくって官職名だったんです。
( ・(,,ェ)・) 江戸時代に入ると、あまりにも日本全国に『〜兵衛』や『〜衛門』がいっぱい居たので、江戸幕府も全員から取り上げるわけにもいかず、とうとう『百官名』(ひゃっかんな)という、官職っぽい名前を名乗ることを許可しなければなりませんでした。時代劇で一介の悪徳商人とかが堂々と『〜兵衛』を名乗っているのはそのせいです。


 また、戦国武将達を管理する大名にとってもそういった願望は利用価値のあるものでした。合戦で勝っても狭い日本、褒賞として家来に与えられる土地は限られています。朝廷の官職という名誉は、時に戦国武将にとっては忠誠心を奉げるに値するものです。役立つ家来には官職を叙任させて結びつきを強めようと考えた大名も少なくなかったでしょう。


 ところが、戦国時代の朝廷というものは日本の歴史上類を見ないほどに弱体化しており、統治機構としての管理は既に破綻していました。朝廷の高い官職についている公家さんは愚か、天皇までもが直筆のサインを書いては売ってお金にしないと食べる物にも困ったほどの貧窮振り。
( ・(,,ェ)・) この時代の公家の困窮振りを示すエピソードとして、『冬に面会を求めたら"夏に着る服しかない"と断られ、それでも会いたいと言ったら"蚊帳"を体に巻きつけて出てきた』なんて話があります。着るものにすら困ってたんですね。


 こんなありさまですから、朝廷にとって戦国武将達の望む官職の大部分は、実質的権限も乏しい名誉職のようなモノ。ただ、天皇の御威光めでたい、朝廷の官職であるという名だけが輝く代物だったのです。 ぶっちゃけ、戦国武将がお金持ってきて"欲しい!!"と言えば売り払って問題もないものでしたので朝廷も朝廷、生きていくためには手段は選べません。


 戦国武将達から献金を受けて『〜っていう官位が欲しい!!』とおねだりされたら、見栄とか体分とか有職故実とかを考慮している余裕などありません。
 『欲しいの。頂ッv 
σ(゜ヮ。 *)』といわれたら、その官職の『定員』とか『希少価値』とかを考えずに、献金の金額次第でバンバン推挙していたのです。


 この、お金で官職を買うという暴挙を(りょうかん)と言います。
 戦国武将の中には武田信玄の大膳大夫や毛利元就の陸奥守、大内義隆の兵部卿などなど、正式に朝廷から勅旨が来て官職に任命された武将も数多くありますが、それらはほぼ猟官によって官職を獲得しているといって差し支えないでしょう。
( ・(,,ェ)・) 大内義隆の兵部卿は、後の信長・秀吉・家康など朝廷に強い影響力のあった天下人たちとは違い、純粋に献金だけで勝ち取った官位としては当時最高級のものでした。義隆は北九州の国際貿易港・博多などを領地に押さえ日明貿易で莫大な財産を得、それを使って実に八回も猟官に成功しています。

     


 挙句の果てには『昔先祖が貰ったから、代々世して引き継いでる。』とか『昔○○という大将に褒められて、った官職だ。』と半分嘘をついてまで、朝廷に無断で官職を自称するものまで現れました。朝廷の官職に世襲制はありませんし、仮に自称しても朝廷の機構がガタガタなので処罰もできません。



 おかげで、気づいてみたら戦国時代には物凄い数の『京都の治安持長官。』とか『備前の国の官。』とか『天皇様の近衛兵団の長。』とかいう官職を持つ人達がひしめく有様になってしまいました。
 朝廷の力が強く、安定していた頃には一人しか居なかったはずの『備前の国の長官』も、自薦他薦を含めてかなりの大人数居たと思われます。


 話しを元に戻せば、板垣信方や甘利虎泰が一見すると甲斐国、武田家とは何の関係も縁もゆかりも無い様な土地…駿河守や備前守の地位官職を持っているのも、元はそういった『合戦で手柄を立てた恩として主君から推挙して貰った官職』か『ご先祖様が貰った官職を世している』あるいは『勝手に自称している』官職だからです。なぜそんなことをするのか、それは名誉が欲しいし誇りたいから、です。


 では、他の武田家の武将達がどんな官職を名乗っていたか軽く説明して、今夜の締めとさせて頂きます。

■板垣駿河守信方(サニー千葉)甘利備前守虎泰(竜雷太)原美濃守虎胤(宍戸開)
 駿河守は駿河国(現静岡県東部)の、備前守は備前国(現岡山県南東部)の、美濃守は美濃国(現岐阜県南部)の、『朝廷公認の国支配責任者・長官』です。

 朝廷の官職というより地方長官で別名を国司、官職名とは呼ばず『受領名』(ずりょうめい)と呼ばれています。
 ちなみに、越後長尾家にも駿河守と備前守が同時期に居ました。『天下への道』で初登場する予定の宇佐美定満(緒形拳)が駿河守、大熊朝秀(大橋吾郎)が備前守です。
 …もう、お隣に二人目の長官が居るわけですね。

 なお、当時の日本は66カ国(隠岐島・対馬島を『国』とカウントすると68カ国になります)あったので、国司は都合66人ないし68人居た勘定になりますが、皆同じ地位では無く、経済力や立地条件で国によって地位が違いました。
 地位が高い順に国・国・国・下国とあり、備前・駿河は上国にあたり、真田昌幸が叙任された安房守…安房国(現千葉県・房総半島南端附近)は中国にあたります。

 また、朝廷には『等官(しとうかん)と呼ばれる官吏区分があり、それぞれ長官を『かみ』、次官を『すけ』、一般官吏を『じょう』、下級官吏を『さかん』と呼びました。
 充てられる漢字は官職によりことなりますが、カミと読めば長官、スケと読めば次官であると考えて差し支えありません。

■馬場民部少輔信春(高橋和也)

 民部省は令制八省と呼ばれる朝廷でも重要な官職で、京の都をはじめ地方に住む国民の戸籍に基づいて徴税を行い、また大きな街道などの道路建設や管理も担当していました。

 下部組織として主計寮(しゅけいりょう・かずえのつかさ)という税収の計算や納入や予算の編成および会計監査を担当する部署、主税寮(しゅぜいりょう・ちからのつかさ)という、田畑から獲れる米や雑穀などの納入や倉庫管理、地方財政を正税帳・粗帳などの書類通帳にして管理把握する、という大変忙しい部署を持ち、かなり早い時期から形骸化していった朝廷の諸組織のなかでも特に重要な部署でした。

      

 馬場信春は民部少輔、『輔』はスケですが少とつくため、民部省の次官補を任官されていたことになります。上記の官職説明からも判るとおりかなりの計算事務能力を要求される仕事であり、その格好よさから戦国武将も憧れたのか、兵衛や衛門・弾正ほどではありませんが割りと多くの武将が名乗っています。


■真田弾正忠幸隆(佐々木蔵之介)
 大河『風林火山』放映当時は小山田信有(田辺誠一)と並んで女性視聴者から絶大な人気を得た佐々木蔵乃介さんが好演した真田弾正ですが、先の民部少輔とは違って戦国武将に大人気の官職でした。



 この官職の詳しい説明などについては、下記リンク『赤髭亭』より『赤髭の戦国歴史浪漫譚』をクリックし、『戦国武将官職講座【第三回 弾正忠】』を御覧下さい。
( -(,,ェ)-) ひどい自己自演コマーシャルを見た。けど、そっちで詳しく書いてありますので折角ですから御覧くださいませ。(平伏






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"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第三十一夜】

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 戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■五月三十一日のトリビア

 上杉謙信を退け、織田信長を怯えさせた
 『甲斐の虎』武田信玄。自分亡き後の計画を
        
遺言に残しているが、よく読むと盾している。  



売り家と、唐様で書く三代目。そうなる前の遺言状だけれど?


     


 冒頭しょっぱなから
お前がうな!!m9っ;・`ω・´)と、全国二千万の戦国歴史Fanの皆様から突込みが入ること必至であろう太閤殿下のお言葉ですが…本当に『名将言行録』に掲載されているお話なので身も蓋もないお話。
( ・(,,ェ)・) 『名将言行録』は、今日に戦国武将の格言や名エピソードとして知られる逸話を数多く掲載していますが、編纂されたのが明治時代とかなり遅く、信憑性の足りない俗説まで拾っているので、ひょっとしたら太閤殿下には覚えがないことかもしれませんが。(セルフカウンター


 戦国の覇者・織田信長の衣鉢を継いで明智光秀・柴田勝家ら好敵手を滅ぼし、後の東照大権現・徳川家康を制して天下統一を成し遂げた稀代の英雄も、自分の死後の豊臣家まで考えられていなかった――というのは、晩年に病の床へ就いたとき、家臣達へただただ幼子の後継を頼み込み続け、老耄の醜態を晒したエピソードからも明らかなことでしょう。

    

 明智光秀による急襲の謀叛『本能寺の変』で倒れた織田信長や、脳溢血あるいは脳梗塞で意識を突然に消失しそのまま眠るように死んだ上杉謙信、そして前述した豊臣秀吉が没後に勢力を大きく減退させてしまったことからも判るように…人生五十年で生き馬の目を抜く戦国乱世を駆け抜けていく武将達が死後も領地家名を保つためには、やはり入念な『遺言状』、跡を継ぐ者達への明確な指標を残すことが重要なようです。



 赤髭が思いつくだけ善例を挙げてみれば…――。

 
娘は武士の嫁にやるな、きっと不幸なことになる。医者か町人なら倖せになれるだろう』『たった一人残った弟には家督を継がせないでくれ。と悲愴ながらも暖かい心で遺族の行く末を案じたのは、家族の大半を合戦で失った『鬼武蔵』こと

 
天下に望みを掛けるな、地盤や家臣達こそ慮れ』『家族兄弟の和を何よりも第一とせよと乱世にあっても家中の和を重視したのは、家督相続や勢力拡大において実弟や実の娘を含む多くの家族を殺してきた稀代の謀将・毛利

 『
幾ら戦国時代だからって信義に外れたことはするな。歴史を見ても不義の武将ってのはいっとき栄華を誇ってもだいたい長続きしていない。と乱世だからこそ通す筋があることを病床で説いたのは、一代の梟雄にして英傑・北条早雲の跡を見事に継承して五代百年の礎を築いた聡明なる二代目・北条


 後継者の事まで、自身が世を去った後まで考えて策を張り巡らした武将達の子孫は闘争の荒波を乗り越え、栄華を得ていることがうかがえます。
( -(,,ェ)-) 小田原北条家だけは五代目でしくじり秀吉に滅ぼされてしまいましたが、傍系で氏綱の孫・北条氏規は徳川家康と懇意だったことから宗家滅亡後も大名の地位を維持し、氏規嫡男の氏盛からは河内狭山藩一万一千石の外様大名として明治維新を迎えています。




 さて。そんな武将達の深慮遠謀…―自分亡き後の御家の盛衰を左右する遺言を残したことで知られる戦国大名と絶対に外せない知名度を誇るのが、"甲斐の虎"こと
武田でしょう。


 1572年
(元亀三年)、室町幕府十五代将軍・足利義昭の画策による"信長包囲網"へ土壇場になって参戦した武田信玄は上洛を決意、それに立ちはだかった徳川家康を三方ヶ原で迎え撃ち、魚鱗陣で快勝。

 そのまま徳川家領である遠江国
(現静岡県西部)の刑部(おさかべ)で年越しをし迎えた1573年(元亀四年)

     

 …という時に陣中で倒れ、無念の帰国。三州街道を北上して本拠地・甲斐国
(現山梨県)へ撤退することになりました。信玄は既に病魔が体を蝕んでおり、その上に雪も降る過酷な戦場生活が祟ったためだとか、徳川軍による鉄炮狙撃を受けてその傷が悪化したせいだとも言われ原因はハッキリしていません。
 

 信玄の京都上洛への執念はただごとではなく、帰路の中途で一度は生気を取り戻したのですが…――信濃国
(現長野県)伊那谷の駒場というところで、とうとう命脈が尽きてしまいました。

 時に1573年
(元亀四年)四月十二日。風林火山と諏訪法性大明神の軍旗の元、無敵の快進撃を続けてきた甲斐の虎は53歳で幽冥の境を迎えることとなります。



 この時に武田勝頼や山県昌景らに言い残したのが、有名な『
の遺言』です。
 病床の枕元に集結した錚々たる武将達…孫子兵法十三篇の薫陶を受けた後継者達に、信玄は今後の武田家の方針について事細かく指示をしています。


 まず最初に言い渡したのが、武田家の次期総領は四男の武田勝頼、そして孫の信勝であるという宣言でした。

    


 諸将達には今後の武田家は勝頼・信勝を君主と奉って盛り上げて欲しいと何度も念を入れて頼み、認証を求めた様子で…――元より疑り深く他人を信用しない向きのあった信玄のこと、何度も何度も言ってのけたことでしょう。
( -(,,ェ)-) 信玄は1567年に嫡男の義信と政策方針の違いで衝突し、これを幽閉し死なせて以降は長らく後継者を決めていませんでしたし、隠居もしていません。
 武田勝頼が『親類衆の一角で信濃諏訪家の後継者、高遠城主。戦場では一部将の扱い』だったのが、甲斐国に召還されて後継者扱いになったのは実に1571年になってからのこと、信玄の死の僅か二年前です。
 今風に言えば、後継者不在の大会社社長が、歴たる息子をずっと支社長扱いのままにしていた…ということになります。そりゃ信玄公、何度も言うはずですね。



 そして勝頼を枕元に呼ぶと、今後の武田家経営方針について色々と指示しています。

 『自分の喪を三年間秘せよ
が特に有名ですが、他にも

上杉謙信と和
すること。アイツは敵にまわすと鬱陶しいが一緒に戦うならこれほど頼りになる奴は居ない』、

 『
家臣達を切にして、来るべき敵襲に備えること』、

織田信長には
をつけること

 『自分の遺体は鎧を着せて甕に入れ、諏訪湖に
めること

御家が安定してきたら、上
作戦を再開すること

( ・(,,ェ)・) 『上杉謙信は武田信玄のことを好敵手と認めていた』だなんて話がありますが、実際は本当に怨敵として嫌悪していたようです。

 和睦なんてとんでもない話で、武田信玄の死をかぎつけるや否や同盟を結んでいた織田信長に書状を送り、『信玄死んだ!!俺は越中国(現富山県)を攻めるから信長は信濃国攻めて!!これを機会に武田家ぶっつぶそう!!』という、テンション100%な意見を示しています。美談もへったくれもあったもんじゃない。


 等等。…―神経質で慎重派だった信玄らしく、割と事細かく武田家の執るべき道を示しているのですが…問題なのはこの後に続く二項目です。





 長々と遺訓を垂れた信玄公、最後に次期総領・勝頼の手を取って言い残したのは

 自分亡き後、三年の間は専守防衛に徹して無用な合戦を起こすな

ということでした。
無敵の騎馬軍団、常勝無敗の甲斐武田がなんでそんな消極的な方針を据えねばならなかったのでしょう?



 それは、信玄は『自分』という不世出の英傑があったからこそ甲斐武田家は一枚岩だったことを、誰よりも理解していたからに他なりません。

 甲斐武田家は、元々あまり磐石とは言い難い御家です。戦国時代に入る少しまえは家来の跡部一族に頭を抑えられて何も出来ませんでしたし、信玄から遡ること三代前から代々に渡り御家騒動を毎回の様に展開し、身内同士で内輪もめを続けてきたという
ばしい一族です。

 信玄本人も長男・武田義信によって危うくクーデターを起こされるところでしたし、家臣達は家臣達で武田家の前総領だった武田信虎を『こんな乱暴な君主にはついていけない!!』と、信玄を神輿にして追放してしまったほどです。親類縁者も家臣も、鎖で繋いではいますが犬じゃなくって虎か狼かというくらいに獰猛で、独立性の高い勢力。


 
自分が死んだ後、勝頼が無事に次期総領に就けるという保障は何処にもありません。


 信玄の遺言は統括すると、

〆8綮闇は"武田信玄は生きている"と近隣大名に思わせておいて、
△修隆屬論鐐茲鬚擦困卜涼脇眄に努め、
2反鍛への求心力を高めて掌握し、
ざ畩譴龍式劼任△觚信とは仲直りをして、
タヅ朕長の様子を見て
上洛作戦を敢行する


 という、多方面の難局に対応する非常に理にかなった政治方針なのです。



 しかし、次に山県昌景が呼ばれると…――ちょっと信玄公がおかしくなりました。

 この当時、昌景は『両職』と呼ばれる武田家臣団の二大筆頭職の一翼を担っていた重鎮であり、麾下に控える歴戦の猛者達は鎧兜を燃えるような赤で揃えた『武田の
備え』。

 三方ヶ原の合戦では先陣を受け持ち徳川軍を圧倒。影武者を立てて必死に逃げ捲くる家康を猛追し、あと一歩のところまで追い詰めた稀代の猛将でした。いわば武田の先駆けを受け持つ顔というべき人物です。
( -(,,ェ)-) 浜松城まで逃げ帰った家康は馬の鞍に便失禁するほど恐れ慄き、『山県三郎兵衛とは恐ろしき男だ…』とうわごとのように繰り返していたそうです。
 後年、長篠の合戦で山県昌景が討死したときも『惜しい武将を亡くした』と言い、首実検の際には一番の大物として昌景の首と名前を筆頭に据えたのだとか。


     


 そんな昌景の顔を見て、ちょっと錯乱したんでしょうか。信玄は

昌景、明日は"瀬"に旗を立てよ

 とか言い出したのです。


 この信玄が言う「瀬田」とは近江国
(現滋賀県)瀬田のことで、琵琶湖の最南端…ここを抜けて瀬田の唐橋を渡れば京都は目前、という場所。
 『
瀬田を制するものが京都を制する』と名高かった戦略上の要衝であり、いわば甲斐武田軍の最終目的地です。

 ここに武田菱の旗が翻るということは、織田信長も徳川家康も木っ端微塵に撃ち砕かれ信玄の上洛が完遂する、ということを意味します。

     

 いや、信玄公。あんたついさっき後継者の勝頼に『三年間は合戦起こすな』って言ったばっかりでしょうに。

 まぁ…擁護するなら。それだけ、京都へ上洛し甲斐武田家の武勲を天下に知らしめたかったのでしょうね。


 このくだりについては

上洛への執念を燃やす信玄は最後まで甲斐帰国を拒んだため、勝頼以下上層部は信玄に内緒で撤退しながらも"まだ上洛は続けています"と嘘をついていた

とかもっともらしい理由がつけられていますが、どうもそういう美談は無かったようです。


 だって、武田信玄の公式伝記であり偉業記録文書でもある『
軍鑑』に、山県昌景に残した遺言についてこんな注釈がつけられているんですから。

     

 『
いやぁ、さしもの信玄公も死に瀕しては冷静じゃいられなくって、きっとパニクってたんだね』って。

 まぁ矛盾してるけど仕方ないでしょ、的な遺言のをフォローしてるんです。
( ・(,,ェ)・) 言わなきゃバレないのに。



 甲陽軍鑑の原案は信玄の寵愛が厚かった高坂昌信の筆によるものだ、なんて言われてますが…『げ弾正』なんて綽名もある昌信、冥途で信玄の怒りから逃げ回ってなきゃいいんですけどね。



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"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第三十夜】

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 戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■五月三十日のトリビア

 戦国武将にも羨望の的だった銘刀の代名詞『正宗』。
 現代でもその贋作が大量に確認されているが、
      
そうなった原は石田三成と徳川家康にある 。  



■日本刀槍史上で燦然と輝く銘刀・正宗の歴史とその真贋。

 さて、突然ですが…このブログを御覧になっている戦国歴史Fanであろう紳士淑女の皆様方は、『まさむね』と問われたらどんな連想をするでしょうか?

 恐らく、誰もが『遅れてきた戦国武将』こと伊達政宗を思い浮かべられることでしょう。
 、今回の御代はそっちじゃない『正宗』…奥州の独眼龍に匹敵する知名度を誇るものとして、日本刀の方の『
』のお話です。


 銘刀の代名詞として、戦国武将やその歴史にあまり興味の無いと仰る読者の方々でも一度はその名を耳にしたことがあるでしょうが、特に今二十代後半から三十代までの年齢層の方は、家庭用ゲームソフト『FinalFantasy』シリーズやその他RPG、幻想世界を背景とした数々の物語に登場する最高級の武器として、妖刀『
正』と並び賞される古今無双の魔剣、刀剣武器の筆頭級として認識されている方もかなりいらっしゃるのではないでしょうか。


 


 幻想世界でも最強の刀剣として誉れ高い『正宗』ですが、念のために言っておけば…

 正宗は、鍛冶師『岡崎五郎入道正宗』と彼が打ち上げた刀の銘として刀剣史上にその名を残している実在のものです。
 現存する幾つかの正宗には重要文化財は勿論、幾つかは問答無用の国宝…日本が誇る至宝となっているものもあり、江戸時代には徳川将軍家や御三家が所蔵したという、言わずと知れたKing of 日本刀です。


 徳川家に祟るとされた妖刀『村正』や、切れ味鋭い事で名を挙げた『備前長船』ともども、数多くの戦国武将にも寵愛されその佩刀となった正宗ですが…――

 
『ゲームとかでも問答無用で最強武器だし、実際の戦国時代でもさぞかし大躍したんだろうなぁ』と思えば、実のところ…赤髭はこれまで、"実践の合戦で正宗を振り回した戦国武将"の記録やそのエピソードをまだ一件もんだことがありません。



 真田幸村をはじめ数多くの戦国武将に愛された村正、『戦国の覇者』織田信長や『越後の龍』上杉謙信に愛された備前長船はそれぞれ、戦場でも信頼にたる武器として数多くの逸話を残しているのに、なぜ正宗だけはまったくそういう記録に乏しいのでしょう。


 それは、『正宗』が既に戦国時代で既に二百五十年以上の歴史を誇る超がつく骨董品であり、幾ら名だたる戦国武将であっても、軽々しく振り回せる様な安っぽい代物ではなかったから…そんなことをした戦国武将が居なかったから武勇譚が残らなかったんじゃないでしょうか

 それだけ、正宗の価値は素晴らしく…そのロイヤリティに惹かれた武将達は武器ではなく『秘蔵品、家』として追い求めたのです。




 銘刀正宗を生み出した岡崎正宗は鎌倉時代末期の刀鍛冶・新藤五國光
(しんとうごくにみつ)の弟子にして、正宗と双璧を為す名工・村正の師匠だとされている人物で、初めて信頼の置ける史書に登場するのは1316年(正和五年)のこと。


 言うまでもありませんが、1316年と言えば戦国時代より百五十年以上も前。室町幕府どころかまだ鎌倉幕府が存在している、歴とした鎌倉時代です。つまり、正宗は戦国武将ですら憧れの存在であった坂東武士達が活躍した時代の骨董品であることを意味します。
 ( ・(,,ェ)・) ちょうど『元寇』と呼ばれる二度のモンゴル来襲を切り抜けた直後、多額の負債を抱えた鎌倉幕府が緩やかな衰退期にさしかかり始めた頃ですね。


 正宗は『相州伝
(そうしゅうでん)と呼ばれる刀剣鍛冶流派に属し、打ち上げた数多の太刀は見るものを惚れ惚れと、また背筋をざわつかせるような鬼気迫る美しさを誇り、その腕前を鎌倉幕府から認められて御上お抱えの鍛冶師として活躍。数々の刀剣を幕府に納めていたとされています。


 しかし、長い動乱の歴史を生き抜き平成現代に無事伝承された正宗は、いずれも刃渡りは70cm止まり…その多くは刃渡り25cmほどの短刀が占めています。『Finalfantsy7』で登場した、主人公の敬慕する武人にして最終Boss・セフィロスが持っていたような長大な刃渡りを持つ"太刀"は一点も残されて居ないのが特徴です。

 これは、鎌倉時代に打たれた刀…"太刀"(たち)には、戦国時代期に活躍した打刀(うちがたな)や刺刀(さすが)とは違い、僅かに刀身に反りがあったこと…そして後世、戦国時代になって所蔵した武将や刀剣愛好家が『太刀拵えじゃ長過ぎるから。』という理由で刃を短くしてしまったのが原因のようです。
( ・(,,ェ)・)なんちゅう勿体無いことを!!

 ( ・(,,ェ)・) なお、戦国時代に活躍した打刀や刺刀には刃に反りがなく、ほぼ真っ直ぐなものでした。刀身に反りがあると戦場でいざというときにすぐ鞘から抜けないためです。
 また、鎌倉時代のものと違い凄まじく頑丈に出来ていました。身分の低い足軽がもつ刀などは、戦場であらっぽく使いすぎて折れ曲がってしまい、またそうなっても足で踏んづけて強引に折り曲げて戻してから振るった、という話が残っているくらいです。



 さて、そんな孤高の銘刀・正宗ですが…これを好んで蒐集した武将に、あの石田
がいます。

 三成といえば豊臣政権の基盤を支えた吏僚派閥の筆頭、長袖の文官というイメージをお持ちの方も多いとは思いますが…実は賤ヶ岳の合戦で大谷吉継と一緒に七本槍の連中とは違う部署の戦線を担当、自らも敵の首を討ち取っているという武勇譚もきちんと持ち合わせている戦国武将。

 『主君から貰った俸禄を余らせるのは不忠義であり、使い過ぎて借金をするのは愚か者である』という言葉を残した彼らしく、主君・豊臣秀吉から授かった給料は島左近ら勇猛な武将を数多く雇うために費やしたほか、名だたる刀剣武具の蒐集にも余念がなかったようで…秀吉があまり正宗に興味を示さなかったこともあり、そのコレクションはかなりの数になったようです。



 京都や堺は勿論、日本各地の港町や金銀山を直轄領とし、国中の富を集めて栄華を誇った豊臣家。その権威は磐石で、永遠に続くかと思われましたが…――
 1598年
(慶長三年)、豊臣秀吉が世を去ると時代は一挙に風雲急を告げることになります。


 



 そう、あの…―秀吉没後の天下を狙う徳川家康が、誰はばかることなく魔の手を伸ばし始めたからです。

 家康は豊臣政権下では禁じられていた他大名家との婚姻外交を推し進め、自身の藩閥を拡大。
 この動きに遺憾の念を表し、反徳川家の旗頭となっていた前田利家が翌1599年
(慶長四年)に世を去ると、石田三成は亡き太閤秀吉の衣鉢を継ぎ、徳川家康に対する活動を開始します。


 家康に対抗するには、徳川家に靡きつつある豊臣恩顧の大名を再び寝返らせ、自陣営に留め置かなくてはいけない。槍一筋、武勲だけを頼みに生きてきた加藤清正や福島正則と違い頭脳明晰な官僚だった三成がそのために取った手は、『理』と『利』で他の戦国武将達を釣ることでした。



 とは言っても、五大老筆頭であり所領250万石という大勢力だった徳川家康とは違い、三成は五奉行の一角にして近江佐和山19万石に過ぎないという身分…地盤も看板も鞄も違いすぎて、話しになりません。
 ( ・(,,ェ)・) よく石田三成が五奉行の筆頭だった、と記録する書籍を見かけますが、実際の五奉行筆頭は浅野長政でした。しかし、長政は晩年の秀吉に面と向かって諫言したりする骨のある人だったので、次第に秀吉に疎まれ…かわりにYesmanだった三成が台頭していったわけです。


 

 そこで考え付いた妙案は『お金に替えられない秘の品をつけとどける』というものでした。



 石田三成は当時、
(くにひろ 1531〜1614  藤原信濃守国広)という有望な刀鍛冶師の支援者となり、京都の堀川に鍛冶屋敷を設けて数多くの銘刀を打たせていたのですが…こともあろうに。

 三成は彼に命じて、正宗の贋作を大量に生産。これを家康に傾く豊臣家武将達に『物の正宗』として豪快にばらまいたのです。


 何せ自分の手元には正真正銘の『正宗』がたくさんありますから贋作造りにそつはありません。それにたずさわった國広も後に『新刀造りの第一人者・堀川国広』と呼ばれるほどの腕利きに成長していますし、おそらくはよほどの刀剣鑑定達者でなければ偽物だとは気づかなかったことでしょう。
 ( ・(,,ェ)・) "新刀"しんとう、とは慶長年間以降、つまり秀吉が死んだ後以降に作られた刀のことです。ちなみに、池波正太郎の歴史小説『鬼平犯科帳』で主役を張る"鬼平"こと長谷川平蔵が腰に差していた刀がこの堀川国広作のもので、平蔵が活躍した江戸中期には刀剣鑑定家も垂涎の品となっていたことが描写されています。




 そして、この動きに気づいた家康も負けじと相模国
(現神奈川県・東京都西部)から正宗の流れを受け継ぐ刀鍛冶を動員して『正宗』の贋作を大量に生産。

 自陣営の支持固めや豊臣家の武将達を引き寄せるための贈物に使用しました。こちらは本家本元である岡崎正宗の薫陶を汲む相州伝の刀打ちによるものですから、これまた瓜二つの出来栄えとなったに違いありません。




 そんな徳川家康と石田三成による『正宗』の贋作合戦は1600年
(慶長五年)、関ヶ原の合戦で東軍が勝利を収めたことによって終結しました。

 



 三成は豊臣家の為に戦った忠義の士から一転、天下を騒がせた反逆者となってしまい…彼から贈られた正宗を持っている武将は後難を恐れ慌てて処分したことでしょうが、問題は家康がばらまいたほうの正宗です。


 後に江戸幕府を開いて征夷大将軍・太政大臣となり、武家としても公家としても頂点を極め、その没後には東照大権現となって崇め奉られた家康です。

 まさか、贋作の正宗なんかばらまくはずがない!!と誰しもが思ったのは間違いありません。

 そして、『権現様より下賜された由緒正しい正宗』を何物にも変えがたい至宝として子々孫々まで受け継いだ大名家のそれを、贋作と疑うこと…また、仮に贋作と見抜いたとしても"こりゃ偽物ですよ"と指摘できる刀剣鑑定家もまた、いるわきゃありません。




 この結果、正宗は『
折り紙付きの贋作が日本一多い銘刀』という、非常に有難くない称号を徳川家康から授かるはめになってしまいました。家康も江戸幕府を開き天下泰平の世をつくるためとはいえ、罪作りなことをしてくれたものですが…たぶん、本人はそんなににしてなかったんじゃないかと思います。




 何せ徳川家康は『正宗』ではなく、『とある意外な流派の刀』の愛好家だったんですから―――…




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"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第二十九夜】

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戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■五月二十九日のトリビア

 『戦国の覇者』織田信長がその名を乱世に鳴り響かせた
 一世一代の死闘・桶狭間の合戦。その舞台とされる
 
       "桶狭間"は、現在愛知県内にヶ所ある。  



■『海道一の弓取り』今川義元の生涯最後にして最大の誤算、今川軍のその後

 さて、1560年(永禄三年)、総勢四万という大軍を率いて尾張国を強襲した今川義元。

 桶狭間に軍を進めた理由は、旧来の説では『上洛を決意したため』と言われていましたが、様々な方向から検証しなおしてみると、その真相はどうやら『甲斐武田家・相模北条家との三国同盟も出来て後顧の憂いは、完璧とはいえないまでもだいぶん緩くなった。これを契機に、長年の仇だった尾張織田家を徹底的に叩きのめす!!』という思惑によるものという説が近年では有力とされています。

( ・(,,ェ)・)。oO ( 戦国大名が上洛を決意した場合、領国から京都の間に通過する諸勢力を武力で捻じ伏せるか、事前に通達をして通行の許可を求める外交交渉をするのが普通です。

 今川義元にとって織田信長は長年争った不倶戴天の敵だったため滅ぼすのは判るとして、尾張より西の諸大名…近江六角家や伊勢北畠家などは同じ室町幕府の守護大名ですので、平和裏に通してもらうべく使者を派遣するはずです。
 桶狭間の合戦前後、今川家にはそうした外交手段をとった痕跡がないため、『火種の絶えなかった織田-今川家の国境線を武力で確定させ、抗う信長を叩き潰す』ことが目的だったんじゃないかな?という考え方ですね。 )



 その意気軒昂な目論見が、桶狭間の合戦の結果どうなったかは戦国歴史FANの皆様も周知の通り…今川義元がまさかの大敗。

 馬にも乗らず、塗り輿に乗って戦場に来ていた義元は本陣を真っ向切って強襲してきた織田信長の"奇襲じみた正面突撃"によって討ち取られ、落とすはずのない鉄板勝負で命を落とすハメになりました。


 織田信長に十倍近いビハインドをつけていたはずの今川軍四万は指揮官である総大将を失って士気を喪失、泡を食った今川家武将達は総崩れになりながら東に向けて撤退を始めます。大将首を獲られた混乱を鎮撫できる、義元亡きあとに指揮を引き継いで合戦を続けられる武将が居なかったからです。


 そんな『戦国の覇者』織田信長の天下布武創業の地であり、『海道一の弓取り』今川義元最後の地・桶狭間は今も愛知県にあり、その死闘の熱戦譜を語り継いでいるわけですが…。



 『それじゃあ歴史を巡って、桶狭間の地へLet's Goだ!!と思って地図を確認してみると、あるおかしな事実に直面します。




 …―愛知県には、桶狭間がヶ所あるからです。



 まずは、愛知県名古屋市緑区・有松の桶狭間。この住所には『桶狭間合戦戦死者供養塔』があり、ここが合戦最大の激戦区であったことが記録に残されています。


 次に、愛知県豊明市・南館の桶狭間。こちらには『今川義元討死の地』として、彼の墓碑が残されています。


 こちらも、総崩れになる今川軍を勝ちの上げ潮に乗った信長軍が追撃、多数の死者を出したという伝承が伝わっている地。どちらも信憑性のある謂れのある土地ですが、いったいどちらが間違っているのでしょう?



 ぶっちゃけてしまうと、『どちらも』です。


 トリビアにトリビアを重ねることになりますが、まず勘違いされていることに『桶狭間は"間"じゃなくて"の上"』ということ。


 信長の一代記であり、非常に信頼性の高い史料として歴史家に認知されている『信長公記』では、織田軍は『桶狭間山を駆け上っていった』と記録されており、その覇気剣幕に呑まれた今川義元や今川軍は浮き足立ち統率が崩壊、撤退を始めたとあります。


 この時、今川義元は退却の命令を出さなかった為、今川軍は急に総大将を見失った形になり、慌てて『二方向に』、桶狭間山を駆け下りて逃げ出しはじめたのです。


 総大将の今川義元が逃げようとしたのは、その才能を高く評価し幼少期から武将としての薫陶を授けていた松平元康(徳川家康)の守備している(おおたかじょう)


 こちらは勇猛果敢で名高い精鋭・三河武士団を率いた元康が後詰として待機しており、兵糧も事前に元康が運び込んでいたため休憩と戦線の仕切りなおしには持ってこいです。

 しかし、慌てふためきながら逃げ出した今川義元とその旗本の逃げ足は遅く、今の名古屋市緑区・有松で織田信長の追撃軍と激突。義元はここで首級を奪われてしまい…戦国きっての辣腕政治家であり無類の戦上手と讃えられていた栄光の生涯に、醜聞つきの幕を閉じることとなりました。
.

 さぁ、これで『総大将討死!!』の急報に浮き足立った今川軍は士気崩壊、慌てて陣払いを始めます。義元が逃げていった大高城はやや信長軍に近かったため、また情報が錯綜していたこともあるでしょうが…一部の今川軍は、尾張国-三河国の国境に近い掛城(くつかけじょう)目指して逃げ出し始めます。
 
 この逃走も混乱を極めた今川軍の逃げ足は亀そのもので…一方的に織田軍の追撃によって討ち散らかされ、今の愛知県豊明市南館では特に熾烈を極める惨敗を喫し、多数の死者を出しました。

 この二ヶ所の桶狭間は距離にして1劼睥イ譴討らず、混乱を極めた今川軍の阿鼻叫喚、そして織田軍の血気盛んな咆哮はどちらも同じ按配だったことは想像に難くありません。どちらも間違いなく『桶狭間』だと言っても問題はないんじゃないでしょうか。



 今川家の『黒衣の宰相』、桶狭間合戦の五年前に世を去った名軍師・(せっさい、俗に言う”太原雪斎")が健在であれば『退却していく際に軍勢を二手に分けるような失』はまずなかっただろうことは想像に難くありませんが…やはり、戦国乱世は運否天賦。

 武運に見離されれば、四万だろうが五万だろうが負けるときは負けるんですねえ。

 これ以降、今川家の独壇場だった東海地方は桶狭間に凱歌を得た織田信長とこれを機に独立した松平元康によって切り開かれていくこととなり…この二人を『戦国の覇者』と、『戦乱に終止符を打った東照大権現』として大きく飛躍させることになるのです。






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"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第二十八夜】

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戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■五月二十八日のトリビア

 『戦国の者』織田信長の食事は非常に味付けが濃く、
 また塩味もきついものだったことで知られるが、信長が
 
       好んで食べたのは『シラス干しが入った湯漬け』だった。  



■食事を摂るのに無駄な時間とエネルギーは使わない。合理主義者信長の食事哲学?

 1560年(永禄三年)、五月十八日。

 後の『戦国の覇者』・織田信長はかつてない窮地に立たされていました。


 
これまで、父・信秀の代から小競り合いを続けてきた長年の仇敵・駿河今川家の総領・今川義元が総勢四万という大軍を動員し駿河今川館より出兵、遠江国(現静岡県西部)・三河国(現愛知県東部)を経由して信長の本拠地・尾張を強襲したからです。

 後世に『桶狭間の合戦』として伝承されたこの戦い、当初は織田家に勝ち目は無いと思われていました。
 今川軍四万に対し織田軍が揃えることが出来た軍勢は僅かに三千。その戦力差は絶望的で、敵を迎撃しようにもこんな寡兵では鎧袖一触間違いなし。


 おまけに、この兵力差十倍というのは当時の感覚では『力攻めで城を攻め落としても問題は無い』とされる圧倒的優勢。おそらく、野戦を嫌って篭城戦に持ち込んだとて、踏み潰されるのは目に見えています。
 まだ信長の居城・清洲城まで今川軍が襲って来るには距離も間もありますが、それが詰められるのもまた時間の問題でした。



 『野戦にて乾坤一擲、イチかバチかで今川義元軍に喰らいつくより他に道はない!!』

 「いや、こんな兵力では揉み潰されるのは目に見えている。ここは清洲城に篭城して、堅い守りで今川軍を退けるほかない」

 『後詰め(ごづめ。篭城している味方を救うべく派遣される援軍のこと)もなしに篭城して何になるというのだ!!』

 「三千で四万に野戦で勝負をしかけることこそ狂気の沙汰じゃ!!」


 信長の御前会議でも織田家重臣達が喧々囂々と論議しましたが、結論は出ません。信長も信長で真面目にその意見を聞いている様子はなく、しばらくするとあくびをかいて軍評定をお開きにしてしまいました。


『これ以上の議論は無用。夜もふけてきたし、お前らも帰って寝ろ。』

 家臣達もその叡智を頼りにしていた信長がこの言葉、柴田勝家・佐久間信盛ら重臣達も意気消沈し「運も末になると、智恵の鏡も曇るのか…」と、明日の破滅を覚悟しました。



 しかし。日付が変わって五月十九日になり、間も無くの午前二時。

信長は急に寝間から飛び起きて、小姓達に檄を飛ばします。

『具足と湯漬けを持て!! 法螺貝を鳴らせぃッ!!! これより我が織田軍は出撃するッ!!!!』

 俄かに城内が騒がしくなります。信長は小姓達に鎧具足、兜を装着して貰いながら、準備された湯漬けを立ったままあっというまに掻き込んで食事を終了。

 そして普段から愛唱している幸若舞の『敦盛』を唄いながら三遍舞い、それが終わったや否や、孫子の兵法よろしく『動くこと雷霆の如し』の電撃戦で、たった一人馬に乗って飛び出していきました。向かった先は熱田神宮。



 まぁ、この後に何がどうなったかは皆さんも重々ご存知でしょうからここでは省きますが…――織田信長が何かを食べている、といえばやはりこの『桶狭間の合戦の直前』に尽きるのではないでしょうか。

 失敗すれば御家の滅亡間違いなしという絶対的危機の状況でも泰然と落ち着き払った態度で家臣達の動揺を抑え、そして今川軍に悟られないうちに出撃するには一刻の時間も惜しい。膳を整えて暢気に飯を食っているばあいではなかったでしょうから、信長は立ったまま湯漬けを流し込んだのですが…。



 どうやら織田信長は、若き辣腕のビジネスマン同様に『あまり食事に時間をかけない』性質だったらしく、『ご飯にお湯をかけて掻き込みやすいようにしただけ』である湯漬けを好んで食べていたようなのです。



 しかし、織田信長といえば酷薄なまでに気の短い性格と同様、料理の味付けも中途半端なものを嫌いました。

 1568年(永禄十一年)、足利義昭を奉じて上洛を達成した際にも、それまで京都の支配者だった三好三人衆を駆逐した際に、三好家の料理長で名の知れた鶴料理の達人であった坪内某という人を捕らえたときに料理を作らせたことがありましたが、その味付けが京都料理特有の薄味仕立てだったことに腹を立て、『こんな水臭いもんが喰えるか!!首を切ってやる!!』と怒鳴り散らしたことがありました。

 坪内さんは『あと一回、あと一回チャンスが欲しい!!!』と土下座の平謝りで信長に謝罪し、今一度の機会を嘆願。
 そして与えられた次の料理では、田舎料理が如く塩と味噌を使いまくり、ようやく信長の怒りを静めることが出来たという話があるくらいです。

( ・(,,ェ)・)。oO ( なお、現在では一日に摂る塩分の理想的な量は5グラムくらいまで、なんて言われていますが…戦国時代の武将達が食べていた献立を再現してみると、どう考えても一日の塩分が50グラムを振り切っていたそうです。おそらく信長もこういった味を常識と考えていたので、上品で薄味な献立てが多い京都料理には馴染めなかったのでしょう)


 ですので、湯漬けを食べるにしてもその味付けは相当に塩味がきつかったはずです。

 信長は桶狭間合戦以降も戦場では湯漬けをよく食べていたそうですが、そのお膳を見たことがある人が言うには、信長はお湯に浸された飯の上に塩味をきつめにつけたシラス干しを浸し、それを一気に胃のなかに納めるような早飯喰いだったのだそうです。



 織田信長が戦国時代の表舞台から去っていったのは1582年(天正十年)、明智光秀による謀叛『本能寺の変』だったのは読者の皆様も御存知かとは思いますが、このとき信長は既に四十九歳。


 こんなに強い味付けの料理を日々、ゆっくり時間をかけずにかっ喰らっていたのなら…万が一に本能寺の変に遭わなかったとしても、ある日突然高血圧性の脳出血か心臓疾患に見舞われ、そのままぽくっと逝ってしまっていた可能性も充分あったことでしょう。

 事実、やはり塩味きつめの料理が好きでその上大酒呑みだった上杉謙信は冬の能登国(現石川県北部)で四十九歳のとき突然に倒れて意識を失い、その三日後に亡くなったそうですので…――。



 戦国時代に革命をもたらした覇者、乱世の風雲児だった織田信長が健康管理不足でぶったおれて死んでいたら、おそらくは今ほど高い人気は得てなかったのではないでしょうか……。
 





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"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第二十七夜】

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戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■五月二十七日のトリビア

 戦国時代の通貨単位『一貫』。当時の一文銭を合計
 一千枚、紐で束ねたもので、現在の通貨価格だと
 
       計算法にもよるが約万円ほどである。  



■戦国歴史Fanにもお馴染みの"一貫"、けどそれっておいくら?

 1568年(永禄十一年)、かつての室町幕府十三代将軍で、松永久秀・三好三人衆らによって暗殺された足利義輝の弟である流浪の足利義昭を岐阜城に迎え入れた織田信長は、彼を錦の御旗として上洛作戦を開始しました。

 まだ尾張国(現愛知県西部)・美濃国(現岐阜県南部)二カ国の領主でしかなかった信長ですが、卓越かつ革新的な思考で編成した軍勢四万に三間半(約6メートル)の長槍と火縄銃を装備させ、怒涛の進撃。

 途中でこれを阻もうとした南近江(現滋賀県南部)の大名・六角承禎(ろっかくじょうてい)の軍勢、城砦十七ヶ所をわずか三日で粉砕。琵琶湖南岸を通過して瀬田の唐橋を渡り、京都入りを阻もうとした三好三人衆もあっけなく撃破。

 これをもって、信長は戦国時代に一旦の幕を引くことに成功します。

( ・(,,ェ)・)。oO( 戦国時代が"始まった"のは1467年(応仁元年)の応仁の乱から、というのは歴史検証家の間でも足並みが揃っていますが、"いつ終わったか"については諸説いりみだれています。
 一番早い認識は、この『織田信長が足利義昭を奉って上洛に成功した』1568年で、戦国時代を百年間と区切り良くするために認識する先生もいらっしゃるようです。 )



 さて、そんな織田信長の元へひょっこり顔を出したのが、"稀代の梟雄"として悪名を欲しいままにしていた戦国武将・松永

 信長が推戴した室町幕府十五代将軍・足利義昭の兄であった足利義輝暗殺の下手人であり、義昭をも殺そうとした将軍家にとっては仇敵以外の何者でもない彼の登場には織田家は勿論、京都の民衆たちも大変驚いたそうですが…なによりびっくりしたのは足利義昭でしょう。



 『松永弾正は謀反人、事もあろうに幕府の将軍を暗殺した大罪人ぞ!! ただちに祭りにあげて、その首を兄義輝の墓前に供えてくれるわッ!!』と色めきたつ義昭でしたが、望みが叶うことはありませんでした。



 理由は簡単、他でもない織田信長が彼の降参と助命を許可しちゃったからです。
 信長も若い時分は悪党気取りの無頼漢だったため、戦国きってのド悪党である久秀とは意気投合が出来たのやも知れませんが…



 一番の理由は、松永久秀より『九十九髪(つくもがみなす)という非常に価値の高い茶入れを献上されたからです。



 九十九髪茄子は茶道のパイオニアとして名高かった室町幕府八代将軍・足利義政が所有していたとされる大名物の一つで、義政の死後に茶道の師匠であった村田珠光(むらたじゅこう)銭九十九貫で購入したのがその銘の由来とされています。


 戦国時代の通貨としてお馴染みの"貫"ですが、これは当時日本で流通していた宋朝時代の古銭や明朝時代のお金、永楽通宝などを一千枚集めたもので、計算の仕方にもよりますがだいたい今の貨幣価値に換算して8万円ほどだとされています。

 つまり、村田珠光が九十九髪茄子を購入したときには約792万円だったということですね。


 その後、いろいろあって九十九髪茄子は越前の戦国武将・朝倉宗滴(あさくらそうてき)が購入。宗滴は七十九歳という長い戦国武将歴もさることながら茶の湯に造詣が深く、この名器を実に500貫という価格でせり落としたそうです。

 流石は天下の大名物、この時点で4000万円。



 その後、さらに色々諸事情があって九十九髪茄子は様々な茶人・武将の手を渡り歩き、松永久秀が購入したときには様々な歴史的価値もあいまって、なんと1000貫の値段がついたそうで…――久秀も茶人の面子にかけて、この茶入れを大枚はたいて我が物としました。


 そのお値段なんと、現在の貨幣価値で千万円。こうなってくるとジャパネット高田もトーカ堂も言葉が出ないんじゃないでしょうか。(いや、なんでその二件を引き合いに出した赤髭。) 
 
 松永久秀としてはこの天下無双の九十九髪茄子、自分より二十五歳も年下の、尾張の田舎者ふぜいになど絶対渡したくはなかったでしょうが…それが自分の首と引き換えなら、やむを得ません。

 逆を言えば、こんな途方もない価値の御宝をあっさり信長にくれてやった久秀の度胸と、そうすれば命が繋がる以上の見返りがあると計算した冷静な頭脳には恐れ入ります。



 そして、久秀の計算に狂いはありませんでした。おそらくは戦国史上最大の贈り物であったろうこの九十九髪茄子を手にした信長は、隣で喚いている足利義昭に『お前はの小さいヤツだなぁ』とぴしゃり。

( ・(,,ェ)・)。oO( いや、気が大きい小さいの問題じゃない気がしますが信長公。)

 松永久秀の将軍殺しや奈良東大寺大仏殿焼き討ちの罪を不問とし、それどころか大和国(現奈良県)の所領安堵、そして守護代にまで任命しました。


 松永久秀は実に銭1000貫、約八千万円で自分の命を買い、ついでに信長から大和国は思うままにしても良いというお墨付きまで購入したということです。

 げに恐ろしきは戦国乱世、足利将軍家に謀叛した罪と奈良の大仏を消し炭にしてしまったという前代未聞の罪すらもが金で解決されてしまうのですね…。


 


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"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第二十六夜】

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戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■五月二十六日のトリビア

 『戦国の覇者』織田信長と十年に渡って戦い続けた
 不倶戴天の敵・浄土真宗願寺派。
 
    その中興の祖である蓮如と一休さんは仲の良い友達だった。  



■戦国時代きっての腕利き伝教者と、高名な禅僧の俗世ちっくな関係。


 1570年(元亀元年)から1580年(天正八年)までの、十年間。


 …『第六天魔王』、旧来の常識をことごとく覆して戦国時代に覇を唱えた乱世の改革者・織田信長の天下布武を十年遅らせたと言われるこの十年間は、信長に続いて日本の指導者となった秀吉・家康に『信仰って怖ぇ…。』と強く痛感させ、その二人が後に宗教関係にかなり強い束縛をかけることになる教訓となりました。
 さて、その原因は何d(ポーン!!♪ はい赤の○○さん)


 はい、そのとぉーり。『本願寺』、大変結構ッ。( -(,,ェ)-) アタック25ネタをひっぱるな赤髭。


 ある意味、武田信玄より上杉謙信より織田信長にとって脅威であり、宿命の敵と言っても良かった『戦国時代最大の武装宗教団体』、浄土真宗本願寺派との戦いが火蓋を切り、そして終を迎えたのがこの十年間です。

 この十年間の間に織田信長が失った親族と家臣、願いましては。

―邨察織田信広
弟・織田信興
D錙織田信治
つ錙織田秀成
ソ招残錙織田信成
(註・フィギアスケートのあん人じゃなく。(言われんでも判るわ常識的に考えて)
全幅の信頼を置いていた重臣・森(もりよしなり。森蘭丸の父)
織田家の先駆けに常にあった猛将・坂井(さかいまさひさ)
信長の信頼を得ていた能吏・原田
織田家での『猛将総選挙』で一位を取った"槍林"こと林(はやしみちまさ)
美濃三人衆の一角・氏家卜全(うじいえぼくぜん)
信長をして『え、あいつが裏切ったの!?』と驚かせた重臣・荒木
(注・村重は死んでませんが本願寺と通じて謀反を起こし武将生命は絶たれたため)
信長寵愛の小姓から武将まで出世した紅顔の美形武将・万見(まんみしげもと)



 …そろそろ数えるのはやめましょうか。


 兎に角、存命ならば織田政権の重要な席にあり、後の織田家が本能寺の変に遭遇した時に健在であれば秀吉の織田政権簒奪もたやすくはなかったであろう信長の重臣・武将達がこの十年間で、名のあるものだけでもこれだけ死んでしまったわけです。





 それにしても。なぜこれほどまで長年に、戦国時代最強大名として乱世に君臨していた織田信長に真っ向切って本願寺は戦いけられたのでしょう?


 
…詳しく話すと文章が冗長になるので(もう充分なっとるわい)手短に話しますが…。


 もともと浄土真宗でもそれほど強い勢力でもなかった本願寺派をこれまでの大武装勢力にまで発展させたのは、戦国時代直前に登場した(れんにょ 1415〜1499 信證院という高僧です。

 蓮如は浄土真宗の教祖・(しんらん)直系の子孫であり、信長を『法敵』と糾弾し、門徒衆に『進む者は極楽、退く者は無間地獄に落ちる!!』と檄を飛ばした石山本願寺の門跡(けんにょ)の高祖父(曽祖父の父)にあたります。


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 ぇ。

なんで坊さんなのに、堂々と子供作ってるんだこの破僧ども』って?



 浄土真宗はそういう義だから問題はありません。

もともと浄土真宗は鎌倉時代、やはり新興宗教だった浄土宗の開祖・法然(ほうねん)の弟子だった(しんらん)がある日、


 『…あれ? 良く考えたらおかしくね

 仏様の教えをちゃんと信仰して、戒律を守って、毎日善行を積んで慎ましやかに暮らしてる人が死んだら極楽行けるのは、当たり前じゃん。

 阿弥陀如来様は世の中の衆人総てを極楽に導くって誓ってたんだろ?仏様の御慈悲は無限なんだろ?

 それじゃあ、人でも『御願いします』って頼めば、極楽に導いてくれんのが本領じゃなきゃいけないはずだろ?』 



 と、悟りを得て開かれた「戒律のない」宗教だったので、普通に妻帯も認められていればお酒も呑めるし肉食も出来るし、子供も作れました。

 このおかげで、他の仏教宗派の最高責任者が師から弟子へと引き継がれるのに対し、浄土真宗は親から子へと世襲することが出来たのです。



 閑話題。

 で、この蓮如というお坊さんが越前国(現福井県東部)から加賀国(現石川県南部)越中国(現富山県)と北陸諸国を行脚してまわり、


『悪人で結構、凡愚で結構。

 良えか、一人で頑張ってもしゃあないで。

 他力本願ちゅうてな、『南無阿弥陀仏』とひたすら唱えてりゃあ、死んだら極楽行けっから。』

( -(,,ェ)-) なむあみだぶつ。よく聞く言葉ですが、「けて阿弥陀様!!」っていう意味です。身も蓋もないですね。

 と、学のない一般庶民に判りやす過ぎるにもほどがある布教活動をした結果、北陸地方で浄土真宗は大流行!!

 多数の信者を得て、本願寺はいつのまにか浄土真宗の下っ端からみるみるうちに最大派閥へとのし上がります。


 そして戦国時代には、蓮如の子孫が藤原家と猶子(ゆうし。家督相続権のない養子)関係となったり、本来であれば皇族や貴族出身の宗教指導者が名乗れる『(もんぜき)の称号を与えられるまで出世したのです。




 で、この蓮如さんですが…。

 どうやら、あの『一休さん』ととても仲がかったらしく、面白い話が幾つか残されています。



 先夜にお話した通り、一休さんは禅宗の最高峰・臨済宗大徳寺の住持を勤めていながら盲目の女の子に熱を上げたり子供産ませたりと自由奔放すぎる人だったのですが…蓮如さんも負けてません。


 実に五人の正妻を持ち、判っているだけでも十三男十四女




 …もはや漢字で書くとわけわかんないですね。

 早く言えば、嫁さん5人に合計27人も子を産ませた…最後の子供は八十一歳でつくったとかいう、どこの加藤鷹ですかと言わざるを得ない人でしたので、そこらへんは変態同士(今何て言った浄土真宗門徒の赤髭)意気投合出来たのでしょう。

 そんな戦国時代初期に輩出された二人の怪僧ラスプーチン、往年の加藤茶&志村けん並みに息があった二人のエピソードを二つほど御案内しましょう。


■坊主が屏風に上手にうまいこと書き込んだ
 ある日のこと。京都の町に住む商人が有名な絵師に大枚を叩き、それはそれは見事な『馬の屏風絵』を書いてもらいました。今にも屏風から抜け出て来そうな勇躍感のある、素晴らしい馬の絵です。


 屏風から飛び出しそう…といえば!!


 その商人は欲を掻いたか、さらにこの屏風絵の価値を高めようと、ある人に揮毫(きごう。絵や額などに、名のある人物や高僧が一筆入れた賛のこと)を頼むことにしました。

 それを頼まれたのが誰あろう、あの一休宗純禅師。



 屋敷に招かれた一休さん、さっそくその絵を見るや…筆をふるって、惚れ惚れしそうな字力でバシっと墨跡を決めてくれました。

 そこらへんは頓知とウィットが利いた悪戯好きな破戒僧、予想通りの賛なんか入れません。



じ ゃ げ な 』( 意訳 / これは馬だね!!
 


 中国の偉人の言葉とか名のある詩人の歌とか御経の一説とか、かっこいいのを期待していた商人が吉本興業もかくやと言わんばかりの勢いでガックリきたのは言うまでもありません。


 『ちょ、ちょちょちょっと一休禅師!!
 面目に揮毫してくださいよ!! どこからどうみても馬の絵の屏風に"これは馬だね!!"とか書かれてもッ!!!』





 慌てる商人の顔を見た一休さん、笑いながら

 「わかった、わかった。
 わしのツレに浄土真宗本願寺派の蓮如上人ちゅうのが居るから、そいつに一筆入れて貰え。これがフォローできるようなのを。」

 とセンタリング。



 数日後、商人の屋敷に招かれた蓮如。
 『これは馬だね!!』と友人が一筆いれた馬の屏風絵を見て、墨を筆につけるや…これもやはり、一休禅師に負けないくらいの素晴らしい筆跡で


『  う じ ゃ げ な 』( 意訳 / そうだね!!



 と賛を書き込みます。…頓知の名人から蹴りこまれたキラーパスを見事、処理してやってのけました蓮如さん。

 …――商人が、何か諦めた様な顔をしたのは言うまでもありません。




■浄土真宗最高指者のたいせつなもの

 ある日のこと、一休さんが蓮如さん宅を訪ねたのですが…浄土真宗布教に忙しい蓮如は生憎の留守。仕方ないので一休さん、勝手に上がりこんで彼の帰宅を寝て待つことにしたのですが…。

 ちょっと横になるのに丁度良い枕がない。


 きょろきょろと部屋を見渡したところ、蓮如が普段から大切にしている持念仏の阿弥陀如来像が目に止まりました。


 『あぁ、良さそうなが見つかった



 さすがは一休禅師、言うことが違う。

 幾ら宗派が違えど同じ仏教関係者なのに、その阿弥陀如来像をひっつかむと…本当に枕に使って頭に敷き、蓮如の帰還を待つことにしました。

 多分、頓知諧謔に優れた一休さんのこと、帰って来た蓮如が何を言っても綺麗に切り返す言葉くらいは準備していたのでしょうけれど、真摯な仏僧が見たらまず確実に怒り出すような話です。



 しかし、そこは一休禅師と意気投合できる蓮如さん。布教から戻り、一回り以上年の離れた彼の悪戯を見るや否や、呵呵と笑いながらこう言いました。


『おっさん、わしの 売 道 具 で何やっとる。』


 大切な阿弥陀如来さまを商売道具と言い切った蓮如さんのユーモアには、さすがに一休さんも笑って起き上がったのだとか。



 世が世なら禅宗の最大派閥・臨済宗大徳寺の筆頭だった一休さんと浄土真宗本願寺派の最高指導者・蓮如さんの、戦国乱世の諸行無常を露とも感じさせないこのやりとり。

 マイクを向けられても通り一遍等のことしか言わない今の仏教関係者の皆様にも是非、この軽いセンスの良さを見習って貰いたいものです。
(何様だ今回の赤髭)

"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第二十五夜】

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戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■五月二十五日のトリビア

 『頓知諧謔』(とんちかいぎゃく)、いわゆる"とんち"で
 有名な室町時代の禅僧、「一休さん」こと一休純。
 
       実はかなりの長命で、戦国時代序盤まで生きていた。  



■頓知は鮮やか、度胸は満点。でも悪戯と破天荒振りも一級品だった名僧の顔。

 『一休さん』と言えば、言わずと知れた頓知(とんち)の名人。

 その智恵の働き様と機転の利いた聡明振りを示すエピソードは数多く、それらの逸話をアニメ化した『一休さん』を視聴された記憶のある方は二十代後半〜三十代の年齢層にある読者の皆様に多いのではないでしょうか。

( ・(,,ェ)・)。oO ( "♪すきすきすきすき すきすきっ 愛してるーっ。" とかいう、今思えば剛速球な歌詞だったテーマ曲が赤髭には印象深い記憶として残っています。)

 室町幕府の最盛期、金閣寺に代表される鮮やかな北山文化の演出者、何かと基盤が緩みがちだった足利将軍の中でも燦然と輝く実績の持ち主である三代将軍・足利義満と拝謁した際に

そこの屏風に描かれている虎が夜になるとその絵から飛び出し、花の御所を徘徊してこまる。そちの頓知でこの虎を退治してくれまいかと無茶振りをされたときも

それじゃあ、私は縄を準備しますので将軍様はその屏風から虎を追い出して下さい。すぐさま踏んって御覧に見せます!!と切り替えして義満をやりこめた、アニメでも完全再現された逸話を筆頭に


 「このはしわたるべからず。」と橋に意地悪な立て札をした商人の目の前で堂々と橋を渡り、
 『いや、はし()じゃなくって、ちゃんと真ん中を通ってきたやん。』と涼しい顔で言ってのけた話。

 京の都で疫病が流行した際には強欲な薬種問屋から『絶対に誰にもわないから、あの病気に効く薬の調合法を教えて欲しい』と特効薬の作り方を教わり、次の日に"紙にいて"町中に配った、などなど…。

 一休さんの"頓知"振りを示すお話は今も広く知られています。


 しかし、この一休さんが室町時代を突き抜けて『戦国時代まで生きていた』という事実は、案外と知られていないのではないでしょうか。



 "一休さん"こと宗純(いっきゅうそうじゅん 1394〜1481)は室町時代中期に臨済宗が輩出した高名な禅僧で、僅か六歳の頃から京都の安国寺で修行を積み、十七歳で臨済宗の総本山・京都大徳寺に弟子入り。

 それから座禅瞑想で研鑽を重ね、二十七歳で早くも禅の真理を得度し、悟りを開いて『一休』という戒号を師から授けられたとされています。

 アニメでは幼い時に別れたまま逢っていない「さる高貴な御方」に仕えていた母親のことを偲ぶ様がたびたび描かれていましたが、最近の研究では南北朝時代に終焉の楔を打った第百代天皇・後小松天皇の落胤なのではないかという説がかなり信憑性の高い説として有力視。


 宮内庁もこの説を受けて、その最期の地となった『一休寺』こと京都・酬恩庵(しゅうおんあん)族の御廟所として管理しており、そのお墓は誰でも気軽にお参りは出来なくなっています。
 
 ( ・(,,ェ)・)。oO ( 日本には古墳や史跡は数多くありますが、それが研究の結果『天皇家のものである』と判明した途端、そこは宮内庁の厳しい管理下におかれることになりますこうなると、本家本元の歴史学者が『学術調査をしたい』と後から言ってもまず受理されないため、案外とやっかいなシステムだったりします。)



 室町幕府が指示する北朝と、大和国(現奈良県)吉野でそれに対抗していた南朝、二つの皇家を見事合流させ、六十年近い南北朝時代に終止符を打った足利義満と実際に面識があったのかどうかは定かではありませんが、はっきりと判っているのは、彼が八十八歳という当時としては類を見ない長寿を保っての大生だったということです。

 一休さんが亡くなったのは1481年(天明十三年)のことなのですが、1467年(応仁元年)に勃発し、足掛け十一年も続いた『仁の乱』が戦国時代の幕開けと考えるなら、一休さんは"戦国時代の人間"であると言っても別に過言ではないということになります。


 なお、一休さんの最期の言葉は

まだにたくない

 という頓知も捻りも利いていない、ぶっちゃらけ過ぎるにもほどがある本音でした。


 死の六十年以上も前に悟りを開いた禅宗の高僧にしては達観が足りない気もしますが、実際の一休さんは臨済宗の総本山である京都大徳寺の住持という徳の高い僧侶でありながら妻も子もあるという立派な破僧でした

 特に奥さんとなった侍者(しんじしゃ)は、親子ほど歳の離れた盲目の美少で、一休さんは随分この女性にのめりこんだようです。

 彼女への寵愛が過ぎるあまり、毎日の様に恋愛や性愛に関する漢詩や和歌を書き綴り、それが『狂雲集(きょううんしゅう)という一冊の本になるほどだったと言いますし、一休を師と仰いだ数多くの弟子達のなかには実の子まで居たといいますから…


 『一休さん』は、アニメのテーマソングの出だし歌詞も納得な恋愛に奔放な俗物だったことになりますね。

 ( ・(,,ェ)・)。oO ( なお、余談ですが『大手を振って女の人を抱いたり結婚が出来る仏教』というのは、実に明治維新を迎えるまで浄土真宗以外では出来ないこととなっていました実際は世の中も秩序も乱れきった戦国時代だった為、妻帯したり妾を囲っているお坊さんは少なくなかったのですが…。)

 



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☆【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう! おもしろすぎる戦いの数々

富田様のサイト。戦国時代における合戦にスポットを当てて紹介されています。

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