"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第三十八夜】

JUGEMテーマ:コラム


 


 戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■八月十五日のトリビア

 戦国大名がその座を巡って闘争を続けた
 『天下人』。全国制覇が条件と思われがちだが
       
当時の感覚はずいぶんと小さいものだった。



■戦国の覇者たらん『天下』の統一、目指した武将は
 数多いが…その勝利条件とは?


 さて、赤髭が戦国歴史読み物を書く際、織田信長を扱う場合に必ず行うのが
戦国のという称号戴冠。

 1467年
(応仁元年)に勃発した戦国時代の幕開け、『応仁の乱』から数えて百年の1568年(永禄十一年)、他の戦国武将に先立って流浪の将軍・足利義昭を奉じ上洛に成功した乱世の風雲児。

 『天下布武』を掲げ敵対者を討ち滅ぼす『天下布武』を標榜した新たな時代の旗手。その偉大な業績や英雄たる素質、戦国武将の代名詞たる活躍と功績を歴史に残したことへ敬意を表して
厨二病っぽくそう呼んでいるわけですが…――これに関しては、異論のある方も多いのではないでしょうか。

第一、覇者といっても織田信長は『全国制』を達成していない。


 北は奥羽、南は九州まで日本全土に織田木瓜の家紋、永楽通宝の軍旗を掲げることなく本能寺の業火で灰燼に帰した第六天魔王に、覇者という称号は確かに行き過ぎているかも知れませんが…。


 実は、織田信長はある意味では間違いなく
者なのです。しかも、天下を統一したという紛れもない事実を誇る、鉄板の天下人様です。
( ・(,,ェ)・) いま、赤髭は何を血迷ったんだと思った方、正直に手を挙げて下さい。


 何のひっかけ問題かとお思いの読者様もいらっしゃるかとは思いますが、実を言えば…
今と戦国時代では『天下』という言葉の意味合いが随分違っていたのが原因。


 そもそも、日本全土は国と数えて六十カ国以上。長い日本史を読み解いていっても、武力で隅から隅まで制覇出来た権力者なんて信長以降、豊臣秀吉と徳川家康、その後継者達くらいのものなのです。誰も就いたことがない地位が天下人というのも、妙な話ですよね?


■初めて武家政権を築いた源氏の棟梁、源頼朝はどうよ。
 はい、確かに源頼朝は前年大河の主人公だった平清盛と平家一門を武力で滅亡させ、後白河院や藤原家に替わって日本統治を始めた最初の武家政権、その最高責任者でしたが―――…実を言えば『天下人』かと聞かれれば少し違うことになります。源頼朝は最後の最後まで、京都に君臨する朝廷勢力を完全掌握することが出来なかったからです。


    

 しかも、家来の領土ではない頼朝直轄の支配地となると…本拠地の鎌倉を中心に関東地方にあるばかり、近畿に関しては完全に手付かずです。鎌倉幕府が朝廷の上に立ち、本当の天下人になるには源氏断絶の後を受けて執権政治を始めた北条義時、その子孫達の登場を待たなくてはいけませんでした。

■それじゃあ次に幕府を開いた、足利尊氏なら天下人なのか?
 足利尊氏が室町幕府を開いたのは1338年。鎌倉幕府滅亡後に朝廷貴族至上主義で始まった建武の新政府、後醍醐天皇に弓ひく形でのことでした。

 しかし、だからと言って足利尊氏が頼朝や秀吉、家康のような強権を握る武家の頭領だったのかと言えば、答えはNo。

 彼は公家や皇族ばかり得をする時代錯誤な建武政府に反逆し、自分達に都合の良い政府を作ろうと考えた武士達のシンボル、言わばただの御神輿に等しいような人物です。その性格は喜怒哀楽の波が激しく、自分の意見は強く言わない替わりに誰かを非難することもない、それでいておぼっちゃん気質の気前が良いあんちゃん。


    
 
 
 
 
  

 いみじくも、現代のキングメーカーと揶揄された小沢一郎氏言うところの『御輿は軽くてパーが良い』を地でいくような、連立政権の長でしかありませんでした。その直接支配地や軍事力たるは鎌倉幕府の源氏以下で、気に入らなければ部下達は平気で尊氏に反逆するありさま。


    
  

 実際、尊氏は幕府を開いた後もたびたび旧建武新政府に本拠地である京都を脅かされ、時には遠征中の留守に京都を奪われることすらありました。自分の右腕と左腕が喧嘩を始めるとその仲裁もまともに出来ず、両方とも騙しうち同然に処分するのが精一杯。


 室町幕府の足利政権が『天下人』にふさわしい権威と主導力を得るのは、尊氏の孫にあたる足利義満の代になってからのことです。

 

     

   

 
■そして室町幕府は戦国時代を招来する大内輪揉めを開始、世は闘争の巷に。じゃあ天下人の条件って何なのよ。
 ここでやっと話が戻るわけですが、御覧のように『戦国時代当時』では、過去に全国を武力制覇出来たような強い権力者は誰も輩出されていなかったわけで…――豊臣秀吉や徳川家康といった覇者達をまだ知らない当時の人たちにとって、『天下』とはずいぶんと狭い話になっていたのです。

 ぶっちゃけ、戦国乱世での『天下』とは、帝のおわす京都とその周辺、せいぜい近畿地方西部のこと。今で言う京都府・奈良県・大阪府に兵庫県東部あたりのことだったのです。この『天下』というものへの認識の狭さは当時のキリスト教宣教師たちが、『天下』のことを今の大阪府周辺程度に把握し、記録に残していたことからも明らかなこと。


 また、信長以前の近畿で君臨した阿波徳島の戦国武将・三好
が『天下』…京都府・奈良県・大阪府に兵庫県東部あたりをキッチリ押さえていたこと、信長を横死させて十一日間の戦国覇者だった明智光秀が世間から『三日天下』だったと揶揄されたのも、ふたりが当時でいう『天下』を掌中に収めた、立派な天下人だったことを示すものです。


 そういう意味では、全国制覇を果たせなかった織田信長も立派に『天下人』、天下
布武を達成した戦国の覇者なんです。
( ・(,,ェ)・) だから、みんなも信長公を『覇者』と呼んであげてください。 徳川家康ばっかり天下人って言われるのは癪なんですぶっちゃけ




次回更新は、8/20〜8/22の予定です。乞うご期待!!


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■赤

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"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第三十七夜】

JUGEMテーマ:コラム
 


 戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■八月一日のトリビア

 北九州に覇を唱えた戦国大名・大友家を
 支えた驍将・立花道雪。戦場で病没したが
 埋葬問題で家臣達を混乱させている。
 



■大友宗麟の懐刀にして北九州最強の"神"、その
 勝利へのあくなき願望が残した最後の遺言


 1585年
(天正十三年)六月、筑後国(現佐賀県南東部)柳川城を攻める大友家の総大将・立花は薩摩島津家の前に衰亡の一途を辿る大友家を支えるべく、齢七十過ぎになる老骨に鞭打っての出陣。

 若い時分に己めがけて落ちてきた稲妻を切ったために半身不随ながらも矍鑠としていた体に鎧兜をまとい、家臣達の担ぐ輿に乗って采配を振りかざしての敢闘振りはまさに"雷神の化身"。
 北九州でも最強の戦国大名だった大友宗麟にとって、まさに道雪の存在は頼みの綱。


 勇猛果敢な兵法者振りと大友家の基盤をになう器量、部下から集める信頼振りは高く天下に鳴り響き、ついた渾名は『鬼道雪』。
 あの"甲斐の虎"武田信玄に『一度会ってみたい』と言わしめたほどの名将だった道雪でしたが、さすがに最盛期を離れ見る影もないほど衰退した大友家を我が身一人では支えきれません。


 大友家に代わって九州の覇者たる勢いを示していた島津家の猛攻を筑後国で食い止めているのは流石と言うべきでしたが、寄る年波の老耄と過酷な戦場生活には勝てず、とうとう死の床に着いてしまいます。


 共に斜陽の大友家を支える朋友・高橋紹運が陣地を構える高良山の高良大社へ平癒祈願を依頼し、懸命に看病を続けますが…無常なる哉、人の命運。

 『に降り積もったは、溶け消えるまで居場所を変える事はない。武士も一度主君に忠誠を誓ったのであれば、死ぬまで節を曲げずに戦い抜くことこそ本懐』とその法号通りに三十七度の戦場を駆け抜け続けた立花道雪は、遂にその命運を使い果たして柳川城を前に最期を迎えました。享年七十三歳。


 これで大友家の筑後国戦線は総大将を失い撤退は必至となったのですが…―――戦場で武勲を立てることこそ忠義の証と信じていた老将の言は、大友家に所属する武将達に深い感銘を与える内容でした。


『我が死んだならば、屍に鎧具足を着けて高良山は好己の丘、柳川城に向けて埋葬せよ。この遺言に背けば、我が魂魄は必ず祟りをなすであろう』


 
かつて歳若い部下が軍法を破って陣中より実家に戻り、母親の顔を見たというだけで極刑に処した戦鬼の徒に相応しい、勝利への宿願が滲み出る遺言。
 しかも、遺された家臣達がこの言いつけを破らないように念を押す用意周到振り。道雪老人、死して大友家の守護神となり怨敵に祟る覚悟です。


 しかし、元来から家臣達を懇ろに薫陶し、命を賭す信頼を得てきた道雪のこと…この遺言を巡って大きな混乱が起きました。


 次の立花家総領である立花宗茂はこの時、本拠地である筑前国立花山城にありましたが、養父の遺言がいくら鬼気迫る執念を示しても納得が出来ません。

 『幾ら故人の遺言であっても、どうして大友家に忠誠を尽くした道雪の遺骸をただ一人捨て置いて引き退けようか。
立花に人は居ないと世情に謗られることになろう。立花山まで亡骸を奉戴せよ』

 と言及すれば、それでは遺命に背くことになると喧々囂々。


 ならばと道雪に長年付き添った家老職の由布雪下(ゆふ-せっか)が

それでは大友家の勝利を信じて冥途へ逝った道雪様の遺言に背くことになる。なれば拙者はここで腹かっさばいて殉死し、事の次第を泉下にお伝えし、御供つかまつる

 と六十歳近い皺腹を掻き切らんと片袖をうで捲くって公言したら逆効果、『ならば我らも後を追う!!』と大半の家臣達が殉死を決め込み具足を脱ぎだす始末。
 立花道雪がなまじ"生ける軍神"の如くに信奉されたのが逆にあだとなる格好になってしまいました。


 こうなると道雪配下で誰が一等の忠義者なのかと陣中は上に下にの大騒ぎになってしまいますが…――壮絶な論議を聞いていた原尻鎮清(はらじり-しげきよ)が一喝。


『おのおのがたは名誉を尊び腹を召されると仰せだが、左様なことで本当に道雪翁がわれようか、立花山の宗茂様がお喜びになられようか!!

 腹を召すなら、道雪様の衣鉢を継ぐ宗茂公のためにすべきである!!!』


 この言葉に目が覚めた由布雪下ほか一同、もっともであると首をたて振って納得、反省。

 家老職でありその法号に"雪"の一文字を賜った雪下が『道雪様の亡骸は拙者が全ての責を負いて立花山へ御送り致す。もし祟りがあるならば、我が由布一族が罰を受けて御怒りを鎮める所存』と決定稿を出し、ようやく大友軍は柳川城の包囲を解いて撤退を開始しました。


 大友家の守護神たる立花道雪の死を知った島津軍の猛追撃を迎撃したのは、長年の朋友であった高橋紹運。


 無事に立花山城へ帰還した道雪は山麓の梅岳寺(現福岡県新宮市)に埋葬されることになりました。


 なお、柳川城を陥落させるという道雪の執念は後年、関ヶ原合戦での改易から奇跡の大名返り咲きを果たした後継者・立花宗茂が柳川城を与えられたことにより達成。鬼道雪の宿願はみごと、その遺訓を受け継いだ者たちにより結実しましたとさ。
 

 

 

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■赤

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【重要】赤髭亭新規サーバー移転終了の御案内

■ 先日より諸障害に悩まされネット上公開が危ぶまれていた赤髭公ばるばろす。の歴史読物ホームページ『赤髭亭』ですが、かねてより御案内致しましたとおりエクストリム・レンタルサーバー社より移転、下記アドレスにて公開を再開いたしました。


■移転前のHPでは悪質な障害により潤滑な情報活動が出来ずに悪戦苦闘しましたが、すべての可能性を削除し安全を考えよりプラットホームの広さと堅実性に信頼のある新世界に居場所を移しての新装開店です。

既に被害に逢っているスペースを脱したため、以降は何の問題もなく閲覧が可能です。



■赤髭亭が被害にあったと思われるHP改ざん被害の実像
http://d.hatena.ne.jp/Kango/20130604/1370353242



髭亭 
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今後とも当方HP『赤髭亭』をご贔屓いただけますよう宜しくお願い致します。
                        亭主 赤髭公ばるばろす。

大河『風林火山』第二十九話 逆襲!武田軍 感想



■人生最初の敗北、自信喪失と絶望から立ち直る武田晴信

 さて、今まで合戦で敗北を喫さず、挫折も知らなかった若き甲斐の虎・武田晴信(市川猿之介)が焦燥と増長の末に激突した北信濃の強豪・村上義清

 これまで孫子の兵法と負け知らずの快進撃を頼みに、これ以上は勘助や老臣達に頼らずとも大丈夫…決してなめられまいと猪突猛進した晴信は、板垣信方・甘利虎泰を討ち取られる大失態の上に自身も左腕を負傷するという惨敗となりました。

 冒頭、自失呆然とした晴信の青褪めた顔はこれまでに見られなかった表情で、信頼していた家臣達を死なせてしまった自責の念から撤退することもできず、母・大井夫人(風吹ジュン)からの諌めの手紙でようやく撤退を決めます。

      

 その敗北を畳み掛ける様に合戦を仕掛けてきたのが、これまで存在感と威圧感が空気に等しかった信濃守護職・小笠原長時、その武力を後ろ盾にして旧領地・諏訪郡奪取を目論む狡猾な狐・高遠頼継。

 弱っている敵は徹底的に叩くのが戦国の常道、ではありますが…村上義清と比較して格が二枚も三枚も落ちるもの同士の結託。狐が頼みにした虎もお粗末ながら、威を借りた虎もまたブレーンにした狐が浅墓に過ぎたのです。

      

 気位ばかり高くて頼継の本心が見抜けない小笠原長時の、この間の抜けた雰囲気。

 そんな組しやすい馬鹿殿相手に、爪を隠しきれない能の無い鷹・高遠頼継との会話は軽妙で、視聴者に『ああ、こいつらじゃ勝てないな(笑』という雰囲気を判りやすく、また説得力のある絵面で印象付けると共に、本格歴史大河・風林火山の硬い空気に肩の力を抜く余裕を与えてくれています。(´・ω・`)

      

 そんな程度の知れた似非の虎+智恵の浅い狐に弱り目を叩かれるほど若き甲斐の虎は脇が甘くありません。晴信の傍らには、その幼少よりその成長を見守り、武将としての規範、あるべき姿を指し示し、死後までも主君輔弼の職務を全うした忠義の臣の姿があったからです。



 晴信の傳役であり、『両雄死す』で感動的な最後を遂げた忠節無比の傅役・板垣駿河守信方(千葉真一)が己の死後の動乱を見越した策を残していたこと。

 上田原の合戦で壮絶な討死を遂げる前に、板垣信方は晴信直筆の『諏訪法性上下大明神』の揮毫を軍旗に仕立てて旗に掲げた他、河原村伝兵衛(有薗芳記)を諏訪に遣わし、諏訪西方衆や伊那の諸豪族の調略を行っていたのです。(第27話・最強のを参照のこと)

      

 また、劇中では語られませんでしたが脚本によると…小笠原長時が、台詞の中で『我が』と言って頼みにしていた信濃日岐城城主・仁科(にしなどうがい ????〜???? 盛明、肥後守)を、塩尻峠に集結していた守護小笠原軍より離脱させたのは事前に策を仕掛けておいた板垣の功績であるとされています。


(劇中では仁科道外は顔すら見せませんでした。
 たぶん、時間の都合か何かで省されたのでしょう。『風林火山』DVD-BOXが発売された暁には、特典映像に入ってるかも?
( ;・`ω・´))


( ・(,,ェ)・) ■註・2007年当時の赤髭の呟き。実際には入っていませんでした。


 まだ晴信に信服せず、何かあれば離反しそうな諏訪家の武将達の心を再び晴信奉戴へと収攬させ、さらに敵方の弱い結束や慢心の隙を突いて地盤を緩ませる板垣の地固めは、命を張って諌めたことで冷静さと慎重さを取り戻した晴信ら武田軍に小笠原・高遠連合軍を確実に撃ち破り、再び甲斐武田の信濃における名誉挽回へと繋がっていきます。

 勘助らの輔弼もさることながら、今回の主役は完全に武田晴信-板垣信方主従。死して尚も武田家のことを考え、晴信のさらなる成長と雄飛を願っていた信方の深慮の前、さしもの勘助も今回ばかりは割り込める出番がありませんでした。

      

 さて、そんなこんなで場面は終盤。

 老臣の死とその直後の動乱を見事乗り切った晴信が、小坂観音院で自ら揮毫した諏訪大明神の墨跡の前で『人は 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり』の所存と築城を行わぬ誓いを立てた後、板垣の死を涙ながらに惜しみ慟哭、嗚咽する声も震わせる姿が、視聴者から強い同情と憐憫を誘うという印象的なフェードアウトとなったのですが…今回は、この赤髭の我侭という事で敢えて今回の敵方二人組みについて語らせて下さい。


 はい、『なんで晴信&板垣じゃないんだ』って? ( ;・`ω・´)


 いいじゃないですか、大河史上…ここ迄徹底して『道』を演じきった戦国武将というのは素晴らしく稀有なコトだと想いますし、何より赤髭は彼らのその余りにもあんまりな風格にすっかりれてしまったのですから。


( ・(,,ェ)・) ■当時のはっちゃけた赤髭の語り口調そのままに展開していきます。まぁ、今見ても小笠原長時と高遠頼継の小者感は何より勝る印象を与えてはくれますが。





小笠原長時(今井朋彦)With高遠頼継(上杉祥三)

甲府から塩尻峠までの間、甲斐武田軍の行軍があまりに遅い上に夏の日差しに耐え兼ねた小笠原軍が水遊びを始める中、具足に身を包んだ高遠頼継(上杉祥三)が登場。


 …急いで畏まる雑兵達を忌々しそうに見ながら本陣へ駆け込み、大将である小笠原長時に

      

『軍律の乱れを指摘し、士気を引き締め具足着用を徹底するべし!!』

と訴え出たら、

      

肝心の小笠原長時が具足もつけぬ片肌脱ぎの姿で、真昼間から酒盛りの最中だった。

このシーンで思わず反り返り、壁紙でマトモに顔を擦った人は私だけでは無いと想うのです。

      

 小笠原家に流遇している身にも関わらず、あつかましくも
『諏訪を取り返し、が物としてみせる!!』  

と高遠頼継が我欲我執たっぷりに恥も臆面も無く言い放っては、その都度小笠原長時はワンテンポ置いた後に、まるで『ン?( ;・`ω・´)』と思い出したかのように

      

治めるのはじゃ!!


 とツッコミをいれていたあの絶妙な間の取り方は、夢路いとし喜味こいし師匠の真髄に通じるものがあるほどの軽であり、合戦続きで緊迫した状況の続く甲斐信濃戦線に置いて、素晴らしい腰砕けっぷりをもたらしてくれました。

 まぁ、そんな下心だだもれの高遠頼継をさらに上回り、唖然閉口とさせた長時のボケっぷりには、勘助じゃなくても『いくさに負けるものの気配』がはっきり判る。


 平蔵が急長してしまい空席となっていた【大河『風林火山』の道化師】ポジション、そのおいしすぎる跡目をがっちりキープして視聴者の心に笑いを誘う…真面目一辺倒ではない大河『風林火山』の茶目っ気演出がたまりません。


 この、固唾を飲んで展開を見守る視聴者の脚を見事に払ってなお雰囲気をぶち壊さない仕掛けには、毎度の事ながら本当に関心させられます。(汗



 さてさて。親族であった諏訪家を裏切り、誼を通じた甲斐武田家をも欺き、欲望と執念にまみれた選択肢を選び続けた梟雄・高遠頼継でしたが…その滅びにもまた、実は笑えるという要素以外にもしっかりと、滅びゆく者の末路という意味合いが深く含まれています。。


 弟の蓮蓬軒を失い、伊那郡と高遠城…所領も手離し、端も外聞も捨てて小笠原家に走り…最後には端武者の様に捉えられるという、勧善懲悪な展開…良い意味で期待を裏切らない最後。

 『甲山の猛虎』飯富虎昌の赤備に槍衾を突き付けられ、半泣きの表情でべそをかくその様はただただみっともないの一言に尽きます。もう切羽詰った、もうだめだ御仕舞いだあぁあ的な高遠頼継の眉寄せた絶望顔は小者という彼の立場を何より如実に物語ります。

      

 高遠頼継の最後には、かつて平賀源心や諏訪頼継の最後に醸し出されていた戦乱の世の無情さや悲哀、滅び行く者の美学がまったく感じられませんでした。

 しかし、彼の様な戦国武将…才能に恵まれず奸智ばかり働き、武田信玄や上杉謙信といった英雄達に歯も立たず敗れ去っていった者もあること…――こういう他愛もない小者の骸が積み重なった土壌あるからこそ、甲斐の虎や越後の龍は根を下ろし覇を競えたわけですが…しかし、同じ敗者であっても後世語られる形は様々です。高遠頼継の最後は、けなされることはあっても憧れられることは絶対にありません。

 同じ敗北者であっても、諏訪頼重や真田幸村の最後とはえらい違いです。

 北条氏綱が言い残した遺訓は、魂の底では勧善懲悪、信義を貫き通した者への賞賛喝采を惜しまない日本人の精神を良く良く捉えていたのでしょう。重ね重ね、戦国武将の最後の迎え方とは重要なものです…。  


『…古い物語を見ても、義理を守って滅んだ者と、義理を捨てて栄華を勝ち得た者とでは今日での評価が全く

…義理を違えて不名誉な名が残るくらいなら、いっそ義理を貫き通してんでしまえ。そうすれば後世までその武勲や名誉は讃えられるだろう。

 また、義理を違えて悪逆非道な行いをして栄華を得たところで、その栄光も名誉も長くは続かない。悪逆の報いは天命に拠るものだ、決して逃れられはしない。』
             (北条氏綱公御書置 第一条)



      

 『おのぅれ武田!! おのれ、おのれおのれおのれ おのーッ!!! ( ;・`ω・´)

 『高遠継!! おぬし、幾たび"おのれ"を叫べば気がすむのじゃ!!』




                 



 さて、次回はいよいよ第三十回『天下への道』。今川義元・北条氏康・上杉憲政といったこれまで登場済みの戦国大名達に加え、あらたに甲斐武田家に立ちふさがることになる越後の強豪・長尾家の面々が登場します。

      

 今は無き名優・緒形拳が演じる長尾家の軍師・宇佐美定満が山本勘助に匹敵する存在感を、そしてGacktがドラマ初体験とは思えない圧倒的な演技力と威圧感、ビジュアルを備えた存在として初見参。五年経とうが十年経とうが見ごたえの衰えない二人に注目です。








■歴史痛Check-Point 小笠原長時の波乱に満ちた生涯。

さて、今回の塩尻峠・勝弦峠の合戦で決定的な打撃を受け、南信濃における覇権を晴信に奪われた小笠原長時ですが…――実は、この敗亡後の人生がなかなか面白かったりします。


 腐っても信濃源氏小笠原家の総領、その名声や手腕を様々な戦国大名に買われる、または利用されるなどして、水戸黄門なんか目じゃないくらいの距離を移動し各国を転々としているんです。

 1550年、今回のお話から二年後に武田晴信の進行を受けて所領を失い居城の南信濃・林城から遁走した長時は、尚も奥伊那・鈴岡城で武田家に対抗していた弟の小笠原信定を頼りますが、そこも1554年に武田家に落とされ、長時兄弟はまたもや城を捨てて逃亡。

 大河ではこのあと上杉謙信を頼ったとされていますが…実は、謙信のもとでずっと居候をしていたわけではありません。

 1555年(弘治元年)、長時が向かった先は京都でした。
 実はこの時期に室町幕府から将軍を追い出し天下の覇権を握っていた三好長慶は長時と同じ信濃小笠原氏を祖とする遠縁の同族。
 長慶から見れば小笠原長時は信濃源氏小笠原家の棟梁であり、迎え入れて優遇する理由もあります。
 かくして1559年(永禄二年)、長時は三好長慶の仲介を受け、京都に帰還した幕府十三代将軍・足利義輝の直臣となります。

 実は戦国時代の武家礼儀作法であり、馬術・弓術の家元である小笠原流の宗家でもあった長時はその技術と、ある合戦においては自ら刀を振り回して十八もの首級を挙げたという勇猛果敢な気質を買われていました。大河ではひたすら情けなさが強調された小笠原長時でしたが、ああ見えても甲斐武田家の歴史を綴った「甲陽軍鑑」でも、勇猛な大将と褒められているんです。

 現代にも小笠原流兵法として伝わるその奥儀を義輝や長慶ら三好一族に伝授しつつ、長時は近畿の戦国武将として活動。
 1564年に長慶が没すると次の実力者になった松永久秀や三好三人衆に接近し、1568年には三好三人衆と共に織田信長の奉戴した室町幕府十五代将軍・足利義昭を本圀寺で強襲しています。



 しかし、時代の流れは悲しいもので…織田信長によって、三好一族は壊滅状態に。一緒に京都まで逃げて来ていた弟の信定も討死し、長時はここで再び上杉謙信を頼って越後に逃れます。

 以降は上杉家の客将として活動しますが、1578年に越後の龍が脳溢血に倒れて世を去ると信長の猛攻を受けた上杉家は半壊滅状態。


 次に長時が転がり込んだのは、こともあろうにその織田信長の下でした。

 天下布武戦略における十年来の宿敵だった本願寺が降伏し、信長包囲網にとどめを刺した信長が次に狙った相手は甲斐武田家。
 既に信玄はこの世になく、1575年の長篠の合戦で大河『風林火山』でも活躍した山県昌景や馬場信春を失っていた武田家に対し、信長はそれを攻め滅ぼす大義名分として、長時を利用したのです。


 1581年から信長の客将として近畿に舞い戻った長時は、小笠原兵法の奥儀である馬術・弓術を織田信長・徳川家康らに伝授。

 大河『江』でも豪華絢爛ぶりを描かれた京都御馬揃えにも参加し、名門の誇りも高らかな京都暮らしでしが…なぜか長時、この京都の暮らしを捨てて、信長のもとに三男の小笠原貞慶(おがさわらさだよし)を置いて、自分は南陸奥は会津(現福島県)の蘆名盛氏を頼って都落ちしてしまいました。

 織田信長みたいなパッと出の格下に、『甲斐武田攻めの名目だけで』囲われてることに気づいたのでしょう。

 以降は、卓越した戦術家として蘆名家の軍師となり活躍しました。
 1582(天正十年)六月、かつて小笠原家を滅ぼした怨敵の甲斐武田がなすすべもなく信長に滅ぼされ、武田勝頼が死んだ報を故郷から遠い会津で、長時は聞くことになります。


 しかし、時代とは判らないもので…1582年(天正十年)、今度はその信長が本能寺で滅びました。

  織田家はまだ占領して間もなかった甲斐武田の遺領、信濃国・甲斐国の統治を放棄。
 途端に両国は徳川家康、上杉景勝、北条氏政、そして真田昌幸による千里一望の草刈場になりました。
 かつて武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重の従兄弟・頼忠ら信濃諸豪族もこれに乗じて故地を奪還、そのなかには長時が京都に置いてきた三男・貞慶の姿もありました。
 貞慶は父が失った信州松本を取り戻し、家康の家臣として林城城主になっていたのです。


『やった、久し振りに故郷へ帰れる!!』

 長時はすぐに蘆名家へ暇乞いをし、荷物をまとめて信濃国に帰ろうとしましたが…無常なるかな人の運命は。天命を使い果たした小笠原長時は遠い会津の地で生涯を
えます。

享年七十歳、病死とも、恨みを抱いていた家臣に斬り殺されたとも伝わる最後でした。

 余談ですが、東京都の南、太平洋に散らばり貴重な動植物が残される世界遺産の小笠原諸島は、長時の孫である小笠原貞頼が発見したのが名前の由来とされています。


"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第三十六夜】

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 戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■五月五日のトリビア

 戦国の覇者を灰燼に帰させた男・明智光秀。
 鉄砲の名手として知られるが、実は
 
      けっこう度の進んだ眼だったらしい。 



■信長を横死させた以後の展望が読めなくて当然?
 デキる男の意外な
点。

 1563年
(永禄六年)。後に織田信長の家臣として名を馳せ、そして織田信長を謀叛で葬ることになる一代の梟雄・明智は、越前国(現福井県東部)を治める戦国大名だった朝倉に鉄炮の腕前を買われ、百人の鉄炮足軽を部下にもつ武将として召抱えられることになりました。

 1556年
(弘治二年)、仕えていた主君・斉藤道三が長良川の合戦で討死し故郷の美濃国(現岐阜県南部)の明智を追われて苦節七年。
 糟糠の妻・煕子(ひろこ)ら家族と共に各地をさまよい、時には厄介者扱いされながら寺の境内に寝泊りすることもあった…赤貧にあえいだ三十六歳の光秀にとって、初となる仕官です。


 主君となった義景に火縄銃の腕前を披露するよう命じられた光秀、ここぞとばかりに鍛錬していた鉄炮の連続狙撃を実行。

 三尺(約
30cm)四方の板を、二十五間(約45m)先に設置し、火縄銃を構えて狙い撃つこと発。的の中心を射た急所射撃が68発、狙いは逸れたものの的を撃ち抜くこと32発、つまりはパーフェクトを達成。五代百年続いた筋金入りの戦国大名・朝倉家の武将達に、みごと度肝を抜かせました。(明智軍記)



 ――…と、まぁ。明智光秀といえば戦国史上最大の謀叛『本能寺の変の首謀者であり、歴史の教科書に名前が必ず載る戦国武将の一人として有名な人物ですが、その彼が乱世を行き抜くために磨き上げた殺人芸こそが、当時最先端の技術だった『火縄銃』でした。
( ・(,,ェ)・) 『ようこそ殺し間へ』という台詞と、歌舞伎役者の隈取模様顔で火縄銃を連射する明智光秀の姿は、漫画『センゴク』初期でも特に印象的でしたね。

 後に朝倉義景のもとに寄寓することになる後の室町幕府十五代将軍・足利義昭に近侍し、義昭上洛の御膳立てをするため織田信長と交渉したことが縁となり織田家にも仕官。以降はその文字通りに百発百中の鉄炮術を、信長の天下布武がために活かすこととなるのですが…。




 こんなエピソードを持ちながら、実は明智光秀には 
眼 の疑いがあったりします。


 歴史上の絵画や肖像画からその人の健康状態を推察した篠田達明氏の推察なのですが、検証してみましょうか。



 最初は彼の『顔』から。有名な明智光秀の肖像画を見る限かぎり、彼はかなりの細目。

 最近の漫画キャラに勝るとも劣らないキラキラ目で書かれた宇喜多秀家や池田輝政と比べても一目瞭然で、これは普段から近視がちで遠くが霞んで見えるため、光秀が常に瞼を細めた視線で周囲を見ていたことが推察できます。

 『そんな目の悪い人間に、火縄銃百
百中なんて出来るのか?』というツッコミも来そうですが、明智光秀本人が火縄銃構えて狙撃を披露した、だなんて後にも先にも朝倉家仕官のときだけで、身分が上がっていくにつれ兵法や知識、教養に勤しみ書籍をひもとき、視力が落ちていった可能性だってあるんです。


 視力低下を裏付ける論拠のほかには、明智光秀が織田信長の家臣として忙しくなりはじめたのが四十歳半ばからということ…そして、光秀の働きに陰りが出始めたのは年齢が五十の坂に掛かりはじめた1570年代後半からだということが上げられます。

 明智光秀はいわゆる『元亀騒乱』…織田信長の上洛した1568年を皮切りに、朝倉義景や浅井長政、三好三人衆や浄土真宗本願寺、武田信玄に松永久秀といった名前を連ねるだけでも頭が痛くなってくる連中と畿内の覇権を掛けて争った1570年代前半〜中盤にかけて大活躍した武将。




■比叡山延暦寺焼き討ちでは率先して部隊を動員し一番の手柄を挙げ、織田政権にとって最重地である琵琶湖西岸の要衝・近江坂本城の城主に。

■1575年
(天正三年)、畿内の動乱が室町幕府滅亡で一段落すると、今度は近畿諸国で最も攻略が航すると思われた峻険な山岳地帯・丹波国(現京都府北西部)の攻略を命じられ、丹波亀山城に転勤。

■1576年
(天正四年)〜1577年(天正五年)、石山本願寺・松永久秀・荒木村重ら信長叛逆軍と連戦。

■1580年
(天正八年)、それまで織田家の近畿地方司令官だった佐久間信盛が織田信長より叱責の上、家中追放となると…今度は光秀が『近畿管領軍』として、最責任者となりました。



 若い頃に苦労に苦労を重ね、栄養状態も満足ではない状況だったため体も丈夫ではなかっただろう彼が、五十三歳の老境にさしかかり…激務の末に一番酷使したであろう、視力を悪くするのも頷ける話です。


 しかも、北陸司令官の柴田勝家や中国司令官の羽柴秀吉と違い、彼は近畿在住なものですから…あのカンシャク持ちの織田信長から
れて息をぬくこともできず、常に気を配らなければいけません。
( ・(,,ェ)・) 私が明智光秀の立場だったら、間違いなく重責とストレスで寿命がマッハに縮みますね。ある意味織田家は戦国史上最悪のブラック企業ですし…。



 この頃から、光秀が織田信長に連続して怒られるようになるのも『視力
下』による判断ミスが考えられます。



 まず、"ナントカと秋の空"に匹敵するスピードでコロコロ変わる織田信長の顔色が、読めなくなる。


 宴会好きで他人に大酒を飲ませるのが趣味の信長に対し、宴会の席で渋い顔して酒を断ったりするのは信長の顔色や、それに戦々恐々とする同僚達の表情が読めている人間の選択肢ではありませんし…武田家滅亡後に『我らも骨を折った甲斐があった!』などと得意顔で信長の前で口を滑らせてしまったのも、光秀らしくありません。

 次の瞬間に信長から袋きにされる様な真似を、あの苦労人である光秀が軽々しくするだなんて…周囲が良く見えてないでもないかぎり、ちょっとつじつまが合わないんですよね。


 また、あざやかだった戦術戦略にもキレがなくなり…ほかを圧倒していた武勲もかげりが出てきます。

 柴田勝家・羽柴秀吉ら他の軍団長が一国ないし二国・三国と切り取っていくなか、光秀は五年も掛かって丹波国を攻略に至りました。しかも、敵将の助命を認めるいわば『講和条約締結』です。

 これは丹波国の地形が複雑で難攻不落なのを差し引いたとしても、鈍足といわざるを得ません。これは、視力低下に伴い光秀が聡明機敏だった戦略眼が曇るようになったせいとも取れます。信長は相当いらだっていたのか、講和条約を結んで安土城を訪れた波多野秀治・秀尚兄弟を問答無用で処刑してしまいました。



 ダメを押すのが、明智光秀が本能寺の変後に元同僚・細川幽斎・忠興父子に送った
状。

 幽斎父子は光秀が足利義昭のもと幕臣をしていた頃から懇意の関係。
 とくに忠興は光秀にとっても娘婿であったため、謀叛の後は自分についてきてくれるものとばかり考えて居たようですが…舅を思う以上に信長のことを敬慕していた婿殿は激憤し、妻である光秀の娘・ガラシャを幽閉。その父である幽斎は信長への哀悼を示すため剃髪してしまいました。


細川幽斎殿が、信長の死を悼んで髪を剃られたと聞き最初は立腹もしましたが、よく考えたら当たり前のことでした。けれど、もう今後は私に味方して大きな領土を手に入れることを考えた方が良いと思います。

私がこのたび謀叛したのは、別に他念があってのことではありません。すべては娘の婿である忠興殿のためです。本当です。

■たぶん五十日、いや百日あれば京都だけでなく近隣諸国も平定できると思いますので、そうなったら私は引退してあとの天下は細川忠興殿、明智十五郎
(光秀長男・明智光慶)に譲ります。


 もう、読んでて痛々しいほどの狼狽と焦燥が伝わる文面で…本能寺の変を起こしたのは、可愛い娘婿のためだ。と説得しているのが判りますが…


 この手紙から読み取れるのは、もう引
退をするとほのめかしている点…そしてこの手紙がヤケに丁寧に書かれている点。

 創作物では常に若々しい姿で描かれる光秀ですが、この時すでに五十五歳
 信長の愛唱だった『敦盛』の言うところ、人間五十年を五年も過ぎています。細川幽斎・忠興を味方に引き入れるための方便とも取れますが、目の上のたんこぶが取れて人生これからというときに弱気な発言、既に視力が限界に来ていて引退を考えたというならおかしくはありません。

 また、この手紙は今後の趨勢を占う大事な外交戦略ですので、おそらく光秀本人が書いたものだとされていますが…ひどく丁寧な達筆に書かれています。
 
 これは、光秀が老眼に差し掛かる年齢にあっても近くが良く見えたこと…もともと近眼だったから、老眼が入ってもあまり不便を感じず、手紙を書く距離ならば綺麗に見えていたということを裏打ちするものとも言えます。

 老眼鏡などという便利なものが普及するのは江戸時代に入ってのこと、しかもヨーロッパですらまだ珍しい代物でしたから…いくら光秀が近畿管領軍大将であってもおいそれ手に入るものではありません。


 銀行や郵便局の受付とかで事務のおじさんが額に引っ掛けている遠近両用眼鏡。あれがあれば、明智光秀の生涯と戦国の歴史は大きく変わっていたのかも知れませんね…。


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■赤

http://akahigetei.weblike.jp/main.html



ちなみに眼鏡が日本へ伝来したのは、実を言うと戦国時代。
1550年(天文十九年)に周防国山口の守護大名・大内義隆へフランシスコ=ザビエルが献上したものが最初だとか。

 現存しているものでは室町幕府十二代将軍・足利義晴の眼鏡が有名で、また日光東照宮には徳川家康がメキシコの使者から献上された老眼用の鼻眼鏡が残されています。

( ・(,,ェ)・) タヌキが眼鏡かけたらよけいにタヌキになるだろ…。

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■相互リンク
☆【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう! おもしろすぎる戦いの数々

富田様のサイト。戦国時代における合戦にスポットを当てて紹介されています。

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