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"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第三十六夜】

JUGEMテーマ:コラム
 


 戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■五月五日のトリビア

 戦国の覇者を灰燼に帰させた男・明智光秀。
 鉄砲の名手として知られるが、実は
 
      けっこう度の進んだ眼だったらしい。 



■信長を横死させた以後の展望が読めなくて当然?
 デキる男の意外な
点。

 1563年
(永禄六年)。後に織田信長の家臣として名を馳せ、そして織田信長を謀叛で葬ることになる一代の梟雄・明智は、越前国(現福井県東部)を治める戦国大名だった朝倉に鉄炮の腕前を買われ、百人の鉄炮足軽を部下にもつ武将として召抱えられることになりました。

 1556年
(弘治二年)、仕えていた主君・斉藤道三が長良川の合戦で討死し故郷の美濃国(現岐阜県南部)の明智を追われて苦節七年。
 糟糠の妻・煕子(ひろこ)ら家族と共に各地をさまよい、時には厄介者扱いされながら寺の境内に寝泊りすることもあった…赤貧にあえいだ三十六歳の光秀にとって、初となる仕官です。


 主君となった義景に火縄銃の腕前を披露するよう命じられた光秀、ここぞとばかりに鍛錬していた鉄炮の連続狙撃を実行。

 三尺(約
30cm)四方の板を、二十五間(約45m)先に設置し、火縄銃を構えて狙い撃つこと発。的の中心を射た急所射撃が68発、狙いは逸れたものの的を撃ち抜くこと32発、つまりはパーフェクトを達成。五代百年続いた筋金入りの戦国大名・朝倉家の武将達に、みごと度肝を抜かせました。(明智軍記)



 ――…と、まぁ。明智光秀といえば戦国史上最大の謀叛『本能寺の変の首謀者であり、歴史の教科書に名前が必ず載る戦国武将の一人として有名な人物ですが、その彼が乱世を行き抜くために磨き上げた殺人芸こそが、当時最先端の技術だった『火縄銃』でした。
( ・(,,ェ)・) 『ようこそ殺し間へ』という台詞と、歌舞伎役者の隈取模様顔で火縄銃を連射する明智光秀の姿は、漫画『センゴク』初期でも特に印象的でしたね。

 後に朝倉義景のもとに寄寓することになる後の室町幕府十五代将軍・足利義昭に近侍し、義昭上洛の御膳立てをするため織田信長と交渉したことが縁となり織田家にも仕官。以降はその文字通りに百発百中の鉄炮術を、信長の天下布武がために活かすこととなるのですが…。




 こんなエピソードを持ちながら、実は明智光秀には 
眼 の疑いがあったりします。


 歴史上の絵画や肖像画からその人の健康状態を推察した篠田達明氏の推察なのですが、検証してみましょうか。



 最初は彼の『顔』から。有名な明智光秀の肖像画を見る限かぎり、彼はかなりの細目。

 最近の漫画キャラに勝るとも劣らないキラキラ目で書かれた宇喜多秀家や池田輝政と比べても一目瞭然で、これは普段から近視がちで遠くが霞んで見えるため、光秀が常に瞼を細めた視線で周囲を見ていたことが推察できます。

 『そんな目の悪い人間に、火縄銃百
百中なんて出来るのか?』というツッコミも来そうですが、明智光秀本人が火縄銃構えて狙撃を披露した、だなんて後にも先にも朝倉家仕官のときだけで、身分が上がっていくにつれ兵法や知識、教養に勤しみ書籍をひもとき、視力が落ちていった可能性だってあるんです。


 視力低下を裏付ける論拠のほかには、明智光秀が織田信長の家臣として忙しくなりはじめたのが四十歳半ばからということ…そして、光秀の働きに陰りが出始めたのは年齢が五十の坂に掛かりはじめた1570年代後半からだということが上げられます。

 明智光秀はいわゆる『元亀騒乱』…織田信長の上洛した1568年を皮切りに、朝倉義景や浅井長政、三好三人衆や浄土真宗本願寺、武田信玄に松永久秀といった名前を連ねるだけでも頭が痛くなってくる連中と畿内の覇権を掛けて争った1570年代前半〜中盤にかけて大活躍した武将。




■比叡山延暦寺焼き討ちでは率先して部隊を動員し一番の手柄を挙げ、織田政権にとって最重地である琵琶湖西岸の要衝・近江坂本城の城主に。

■1575年
(天正三年)、畿内の動乱が室町幕府滅亡で一段落すると、今度は近畿諸国で最も攻略が航すると思われた峻険な山岳地帯・丹波国(現京都府北西部)の攻略を命じられ、丹波亀山城に転勤。

■1576年
(天正四年)〜1577年(天正五年)、石山本願寺・松永久秀・荒木村重ら信長叛逆軍と連戦。

■1580年
(天正八年)、それまで織田家の近畿地方司令官だった佐久間信盛が織田信長より叱責の上、家中追放となると…今度は光秀が『近畿管領軍』として、最責任者となりました。



 若い頃に苦労に苦労を重ね、栄養状態も満足ではない状況だったため体も丈夫ではなかっただろう彼が、五十三歳の老境にさしかかり…激務の末に一番酷使したであろう、視力を悪くするのも頷ける話です。


 しかも、北陸司令官の柴田勝家や中国司令官の羽柴秀吉と違い、彼は近畿在住なものですから…あのカンシャク持ちの織田信長から
れて息をぬくこともできず、常に気を配らなければいけません。
( ・(,,ェ)・) 私が明智光秀の立場だったら、間違いなく重責とストレスで寿命がマッハに縮みますね。ある意味織田家は戦国史上最悪のブラック企業ですし…。



 この頃から、光秀が織田信長に連続して怒られるようになるのも『視力
下』による判断ミスが考えられます。



 まず、"ナントカと秋の空"に匹敵するスピードでコロコロ変わる織田信長の顔色が、読めなくなる。


 宴会好きで他人に大酒を飲ませるのが趣味の信長に対し、宴会の席で渋い顔して酒を断ったりするのは信長の顔色や、それに戦々恐々とする同僚達の表情が読めている人間の選択肢ではありませんし…武田家滅亡後に『我らも骨を折った甲斐があった!』などと得意顔で信長の前で口を滑らせてしまったのも、光秀らしくありません。

 次の瞬間に信長から袋きにされる様な真似を、あの苦労人である光秀が軽々しくするだなんて…周囲が良く見えてないでもないかぎり、ちょっとつじつまが合わないんですよね。


 また、あざやかだった戦術戦略にもキレがなくなり…ほかを圧倒していた武勲もかげりが出てきます。

 柴田勝家・羽柴秀吉ら他の軍団長が一国ないし二国・三国と切り取っていくなか、光秀は五年も掛かって丹波国を攻略に至りました。しかも、敵将の助命を認めるいわば『講和条約締結』です。

 これは丹波国の地形が複雑で難攻不落なのを差し引いたとしても、鈍足といわざるを得ません。これは、視力低下に伴い光秀が聡明機敏だった戦略眼が曇るようになったせいとも取れます。信長は相当いらだっていたのか、講和条約を結んで安土城を訪れた波多野秀治・秀尚兄弟を問答無用で処刑してしまいました。



 ダメを押すのが、明智光秀が本能寺の変後に元同僚・細川幽斎・忠興父子に送った
状。

 幽斎父子は光秀が足利義昭のもと幕臣をしていた頃から懇意の関係。
 とくに忠興は光秀にとっても娘婿であったため、謀叛の後は自分についてきてくれるものとばかり考えて居たようですが…舅を思う以上に信長のことを敬慕していた婿殿は激憤し、妻である光秀の娘・ガラシャを幽閉。その父である幽斎は信長への哀悼を示すため剃髪してしまいました。


細川幽斎殿が、信長の死を悼んで髪を剃られたと聞き最初は立腹もしましたが、よく考えたら当たり前のことでした。けれど、もう今後は私に味方して大きな領土を手に入れることを考えた方が良いと思います。

私がこのたび謀叛したのは、別に他念があってのことではありません。すべては娘の婿である忠興殿のためです。本当です。

■たぶん五十日、いや百日あれば京都だけでなく近隣諸国も平定できると思いますので、そうなったら私は引退してあとの天下は細川忠興殿、明智十五郎
(光秀長男・明智光慶)に譲ります。


 もう、読んでて痛々しいほどの狼狽と焦燥が伝わる文面で…本能寺の変を起こしたのは、可愛い娘婿のためだ。と説得しているのが判りますが…


 この手紙から読み取れるのは、もう引
退をするとほのめかしている点…そしてこの手紙がヤケに丁寧に書かれている点。

 創作物では常に若々しい姿で描かれる光秀ですが、この時すでに五十五歳
 信長の愛唱だった『敦盛』の言うところ、人間五十年を五年も過ぎています。細川幽斎・忠興を味方に引き入れるための方便とも取れますが、目の上のたんこぶが取れて人生これからというときに弱気な発言、既に視力が限界に来ていて引退を考えたというならおかしくはありません。

 また、この手紙は今後の趨勢を占う大事な外交戦略ですので、おそらく光秀本人が書いたものだとされていますが…ひどく丁寧な達筆に書かれています。
 
 これは、光秀が老眼に差し掛かる年齢にあっても近くが良く見えたこと…もともと近眼だったから、老眼が入ってもあまり不便を感じず、手紙を書く距離ならば綺麗に見えていたということを裏打ちするものとも言えます。

 老眼鏡などという便利なものが普及するのは江戸時代に入ってのこと、しかもヨーロッパですらまだ珍しい代物でしたから…いくら光秀が近畿管領軍大将であってもおいそれ手に入るものではありません。


 銀行や郵便局の受付とかで事務のおじさんが額に引っ掛けている遠近両用眼鏡。あれがあれば、明智光秀の生涯と戦国の歴史は大きく変わっていたのかも知れませんね…。


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■赤

http://akahigetei.weblike.jp/main.html



ちなみに眼鏡が日本へ伝来したのは、実を言うと戦国時代。
1550年(天文十九年)に周防国山口の守護大名・大内義隆へフランシスコ=ザビエルが献上したものが最初だとか。

 現存しているものでは室町幕府十二代将軍・足利義晴の眼鏡が有名で、また日光東照宮には徳川家康がメキシコの使者から献上された老眼用の鼻眼鏡が残されています。

( ・(,,ェ)・) タヌキが眼鏡かけたらよけいにタヌキになるだろ…。

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■相互リンク
☆【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう! おもしろすぎる戦いの数々

富田様のサイト。戦国時代における合戦にスポットを当てて紹介されています。

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