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"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第三十一夜】

JUGEMテーマ:コラム



 戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■五月三十一日のトリビア

 上杉謙信を退け、織田信長を怯えさせた
 『甲斐の虎』武田信玄。自分亡き後の計画を
        
遺言に残しているが、よく読むと盾している。  



売り家と、唐様で書く三代目。そうなる前の遺言状だけれど?


     


 冒頭しょっぱなから
お前がうな!!m9っ;・`ω・´)と、全国二千万の戦国歴史Fanの皆様から突込みが入ること必至であろう太閤殿下のお言葉ですが…本当に『名将言行録』に掲載されているお話なので身も蓋もないお話。
( ・(,,ェ)・) 『名将言行録』は、今日に戦国武将の格言や名エピソードとして知られる逸話を数多く掲載していますが、編纂されたのが明治時代とかなり遅く、信憑性の足りない俗説まで拾っているので、ひょっとしたら太閤殿下には覚えがないことかもしれませんが。(セルフカウンター


 戦国の覇者・織田信長の衣鉢を継いで明智光秀・柴田勝家ら好敵手を滅ぼし、後の東照大権現・徳川家康を制して天下統一を成し遂げた稀代の英雄も、自分の死後の豊臣家まで考えられていなかった――というのは、晩年に病の床へ就いたとき、家臣達へただただ幼子の後継を頼み込み続け、老耄の醜態を晒したエピソードからも明らかなことでしょう。

    

 明智光秀による急襲の謀叛『本能寺の変』で倒れた織田信長や、脳溢血あるいは脳梗塞で意識を突然に消失しそのまま眠るように死んだ上杉謙信、そして前述した豊臣秀吉が没後に勢力を大きく減退させてしまったことからも判るように…人生五十年で生き馬の目を抜く戦国乱世を駆け抜けていく武将達が死後も領地家名を保つためには、やはり入念な『遺言状』、跡を継ぐ者達への明確な指標を残すことが重要なようです。



 赤髭が思いつくだけ善例を挙げてみれば…――。

 
娘は武士の嫁にやるな、きっと不幸なことになる。医者か町人なら倖せになれるだろう』『たった一人残った弟には家督を継がせないでくれ。と悲愴ながらも暖かい心で遺族の行く末を案じたのは、家族の大半を合戦で失った『鬼武蔵』こと

 
天下に望みを掛けるな、地盤や家臣達こそ慮れ』『家族兄弟の和を何よりも第一とせよと乱世にあっても家中の和を重視したのは、家督相続や勢力拡大において実弟や実の娘を含む多くの家族を殺してきた稀代の謀将・毛利

 『
幾ら戦国時代だからって信義に外れたことはするな。歴史を見ても不義の武将ってのはいっとき栄華を誇ってもだいたい長続きしていない。と乱世だからこそ通す筋があることを病床で説いたのは、一代の梟雄にして英傑・北条早雲の跡を見事に継承して五代百年の礎を築いた聡明なる二代目・北条


 後継者の事まで、自身が世を去った後まで考えて策を張り巡らした武将達の子孫は闘争の荒波を乗り越え、栄華を得ていることがうかがえます。
( -(,,ェ)-) 小田原北条家だけは五代目でしくじり秀吉に滅ぼされてしまいましたが、傍系で氏綱の孫・北条氏規は徳川家康と懇意だったことから宗家滅亡後も大名の地位を維持し、氏規嫡男の氏盛からは河内狭山藩一万一千石の外様大名として明治維新を迎えています。




 さて。そんな武将達の深慮遠謀…―自分亡き後の御家の盛衰を左右する遺言を残したことで知られる戦国大名と絶対に外せない知名度を誇るのが、"甲斐の虎"こと
武田でしょう。


 1572年
(元亀三年)、室町幕府十五代将軍・足利義昭の画策による"信長包囲網"へ土壇場になって参戦した武田信玄は上洛を決意、それに立ちはだかった徳川家康を三方ヶ原で迎え撃ち、魚鱗陣で快勝。

 そのまま徳川家領である遠江国
(現静岡県西部)の刑部(おさかべ)で年越しをし迎えた1573年(元亀四年)

     

 …という時に陣中で倒れ、無念の帰国。三州街道を北上して本拠地・甲斐国
(現山梨県)へ撤退することになりました。信玄は既に病魔が体を蝕んでおり、その上に雪も降る過酷な戦場生活が祟ったためだとか、徳川軍による鉄炮狙撃を受けてその傷が悪化したせいだとも言われ原因はハッキリしていません。
 

 信玄の京都上洛への執念はただごとではなく、帰路の中途で一度は生気を取り戻したのですが…――信濃国
(現長野県)伊那谷の駒場というところで、とうとう命脈が尽きてしまいました。

 時に1573年
(元亀四年)四月十二日。風林火山と諏訪法性大明神の軍旗の元、無敵の快進撃を続けてきた甲斐の虎は53歳で幽冥の境を迎えることとなります。



 この時に武田勝頼や山県昌景らに言い残したのが、有名な『
の遺言』です。
 病床の枕元に集結した錚々たる武将達…孫子兵法十三篇の薫陶を受けた後継者達に、信玄は今後の武田家の方針について事細かく指示をしています。


 まず最初に言い渡したのが、武田家の次期総領は四男の武田勝頼、そして孫の信勝であるという宣言でした。

    


 諸将達には今後の武田家は勝頼・信勝を君主と奉って盛り上げて欲しいと何度も念を入れて頼み、認証を求めた様子で…――元より疑り深く他人を信用しない向きのあった信玄のこと、何度も何度も言ってのけたことでしょう。
( -(,,ェ)-) 信玄は1567年に嫡男の義信と政策方針の違いで衝突し、これを幽閉し死なせて以降は長らく後継者を決めていませんでしたし、隠居もしていません。
 武田勝頼が『親類衆の一角で信濃諏訪家の後継者、高遠城主。戦場では一部将の扱い』だったのが、甲斐国に召還されて後継者扱いになったのは実に1571年になってからのこと、信玄の死の僅か二年前です。
 今風に言えば、後継者不在の大会社社長が、歴たる息子をずっと支社長扱いのままにしていた…ということになります。そりゃ信玄公、何度も言うはずですね。



 そして勝頼を枕元に呼ぶと、今後の武田家経営方針について色々と指示しています。

 『自分の喪を三年間秘せよ
が特に有名ですが、他にも

上杉謙信と和
すること。アイツは敵にまわすと鬱陶しいが一緒に戦うならこれほど頼りになる奴は居ない』、

 『
家臣達を切にして、来るべき敵襲に備えること』、

織田信長には
をつけること

 『自分の遺体は鎧を着せて甕に入れ、諏訪湖に
めること

御家が安定してきたら、上
作戦を再開すること

( ・(,,ェ)・) 『上杉謙信は武田信玄のことを好敵手と認めていた』だなんて話がありますが、実際は本当に怨敵として嫌悪していたようです。

 和睦なんてとんでもない話で、武田信玄の死をかぎつけるや否や同盟を結んでいた織田信長に書状を送り、『信玄死んだ!!俺は越中国(現富山県)を攻めるから信長は信濃国攻めて!!これを機会に武田家ぶっつぶそう!!』という、テンション100%な意見を示しています。美談もへったくれもあったもんじゃない。


 等等。…―神経質で慎重派だった信玄らしく、割と事細かく武田家の執るべき道を示しているのですが…問題なのはこの後に続く二項目です。





 長々と遺訓を垂れた信玄公、最後に次期総領・勝頼の手を取って言い残したのは

 自分亡き後、三年の間は専守防衛に徹して無用な合戦を起こすな

ということでした。
無敵の騎馬軍団、常勝無敗の甲斐武田がなんでそんな消極的な方針を据えねばならなかったのでしょう?



 それは、信玄は『自分』という不世出の英傑があったからこそ甲斐武田家は一枚岩だったことを、誰よりも理解していたからに他なりません。

 甲斐武田家は、元々あまり磐石とは言い難い御家です。戦国時代に入る少しまえは家来の跡部一族に頭を抑えられて何も出来ませんでしたし、信玄から遡ること三代前から代々に渡り御家騒動を毎回の様に展開し、身内同士で内輪もめを続けてきたという
ばしい一族です。

 信玄本人も長男・武田義信によって危うくクーデターを起こされるところでしたし、家臣達は家臣達で武田家の前総領だった武田信虎を『こんな乱暴な君主にはついていけない!!』と、信玄を神輿にして追放してしまったほどです。親類縁者も家臣も、鎖で繋いではいますが犬じゃなくって虎か狼かというくらいに獰猛で、独立性の高い勢力。


 
自分が死んだ後、勝頼が無事に次期総領に就けるという保障は何処にもありません。


 信玄の遺言は統括すると、

〆8綮闇は"武田信玄は生きている"と近隣大名に思わせておいて、
△修隆屬論鐐茲鬚擦困卜涼脇眄に努め、
2反鍛への求心力を高めて掌握し、
ざ畩譴龍式劼任△觚信とは仲直りをして、
タヅ朕長の様子を見て
上洛作戦を敢行する


 という、多方面の難局に対応する非常に理にかなった政治方針なのです。



 しかし、次に山県昌景が呼ばれると…――ちょっと信玄公がおかしくなりました。

 この当時、昌景は『両職』と呼ばれる武田家臣団の二大筆頭職の一翼を担っていた重鎮であり、麾下に控える歴戦の猛者達は鎧兜を燃えるような赤で揃えた『武田の
備え』。

 三方ヶ原の合戦では先陣を受け持ち徳川軍を圧倒。影武者を立てて必死に逃げ捲くる家康を猛追し、あと一歩のところまで追い詰めた稀代の猛将でした。いわば武田の先駆けを受け持つ顔というべき人物です。
( -(,,ェ)-) 浜松城まで逃げ帰った家康は馬の鞍に便失禁するほど恐れ慄き、『山県三郎兵衛とは恐ろしき男だ…』とうわごとのように繰り返していたそうです。
 後年、長篠の合戦で山県昌景が討死したときも『惜しい武将を亡くした』と言い、首実検の際には一番の大物として昌景の首と名前を筆頭に据えたのだとか。


     


 そんな昌景の顔を見て、ちょっと錯乱したんでしょうか。信玄は

昌景、明日は"瀬"に旗を立てよ

 とか言い出したのです。


 この信玄が言う「瀬田」とは近江国
(現滋賀県)瀬田のことで、琵琶湖の最南端…ここを抜けて瀬田の唐橋を渡れば京都は目前、という場所。
 『
瀬田を制するものが京都を制する』と名高かった戦略上の要衝であり、いわば甲斐武田軍の最終目的地です。

 ここに武田菱の旗が翻るということは、織田信長も徳川家康も木っ端微塵に撃ち砕かれ信玄の上洛が完遂する、ということを意味します。

     

 いや、信玄公。あんたついさっき後継者の勝頼に『三年間は合戦起こすな』って言ったばっかりでしょうに。

 まぁ…擁護するなら。それだけ、京都へ上洛し甲斐武田家の武勲を天下に知らしめたかったのでしょうね。


 このくだりについては

上洛への執念を燃やす信玄は最後まで甲斐帰国を拒んだため、勝頼以下上層部は信玄に内緒で撤退しながらも"まだ上洛は続けています"と嘘をついていた

とかもっともらしい理由がつけられていますが、どうもそういう美談は無かったようです。


 だって、武田信玄の公式伝記であり偉業記録文書でもある『
軍鑑』に、山県昌景に残した遺言についてこんな注釈がつけられているんですから。

     

 『
いやぁ、さしもの信玄公も死に瀕しては冷静じゃいられなくって、きっとパニクってたんだね』って。

 まぁ矛盾してるけど仕方ないでしょ、的な遺言のをフォローしてるんです。
( ・(,,ェ)・) 言わなきゃバレないのに。



 甲陽軍鑑の原案は信玄の寵愛が厚かった高坂昌信の筆によるものだ、なんて言われてますが…『げ弾正』なんて綽名もある昌信、冥途で信玄の怒りから逃げ回ってなきゃいいんですけどね。



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