大河『江』第二十七回 秀勝の遺言 感想

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【原発】新たに411頭も…セシウム汚染ワラ食べた肉牛の出荷済みが判明。



今週は何の話題から話を振ろうかな、と考えていましたが…――いくら世間様が暗い話ばっかだとはいえ、これに触れないわけにはいかないかなと思い…世間知らずな歴史痛なりにこの事件について徒然と。


 地震問題もまだ着地点が見えないというのに、福島原発の問題は明らかに政府や自治体の対応出来る許容範囲を超えて拡大していってるように思うのですが…なんというか、これは…個人的には



 民主党、そろそろマスコミの首根っこ押えてらした方が良いんじゃないか?( ;・`ω・´)


 と思うわけです。










 正直いって、原子力発電所はそもそもが『火力風力水力、既存の発電所と比較しても圧倒的な量の発電力が期待できるが何か問題が起きた場合は、それを安全裏に解決できる技術が確定していない』ものだってのを国民が知らなさ過ぎるのにも問題はあると思いますし、そりゃあ教育や説明が行き届いてないのが原因。

  赤髭が大嫌いな民主党のせいでもないでしょうし、政府のせいでもないでしょう。


 けど、対処がちゃんと出来ないのに、ある意味こうなってしまってはどうしようもないのにマスコミにその情報がぼろぼろ漏れて、解決方法もないまま不安ばかりがバラ撒かれすぎているってのは政府の手落ちです。



 こんなことを言うとあれですが、放射能汚染は隠蔽しようが正直に話そうが国民に混乱を招く、どっちに振っても損しかしない情報。

 今や"過去最悪"の嫌な栄冠を福島原発事故に譲りつつあるチェルノブイリ原子力発電所事故に何か学ぶことがあるとすれば、『たとえウソでも良いから隠蔽するなら隠蔽し倒せ』ということでしょうか。

 旧ソビエト連邦は嘘に嘘を塗り固めて多数の死者を出しましたが、結局放射能被害やその影響性を嘘の石棺で塗り固めて、事態そのものは十日ちょっとで終息させました。

 そして、それを根本的に解決する方法が存在しない被害。正直にいえば言うほど事態は深刻になって、風評被害で福島県のみならず東北・北関東全体の一次産業が絶望的になってしまうんです。

 もたもたしていると、今回のセシウム入りの汚染わらを輩出してしまった北関東や北陸にも風評被害が広がること、そして『牛肉以外のことにまで』問題が飛び火するのは時間の問題です。


 また畜産農家に首括らせる気なんでしょうかね。

 いくら健康に悪いから出荷するなと言ったってその損失を十分補填するシステムもつくらずに言っても、被災三県の一次産業は既に壊滅的被害を被っているはず。

 まず最初にやるべきは、これ以上の実害・風評被害にいち早く対応することなんじゃないでしょうか。


 あと、やっぱり問題があるのは国の指導部・指導者。

 菅総理大臣は『原子力発電所にらない安全な社会を目指す』とか言って、『もう二度とこんな被害が起きないようにする!!』とのたまい、放射能汚染問題が起きないように方々の原子炉停止に働きかけているようですが…。


 あん人は、原子力発電所に頼らないことで不足する電力をどこからどう補おうとしてるんでしょう?その場しのぎの発言だとしても思慮が足りなさ過ぎる。

 
現時点では採算合わなさ過ぎてどうにもならない太陽充電ですか、それとも計画停電を結局頼って、信号機切れた道路を火の海にしたいんでしょうか。


 あんまりにも言動と挙動が建設的でなさ過ぎる。


 
 
 高速土日千円だか子供手当需給のための所得制限だか、事業仕訳だかワケわかんないもんに気合と金入れてる暇があるなら。

 さっさとマスコミ黙らせて事態の鎮静化をうながしつつ、公共事業を潰してでも財源確保して被害にあった東北北関東の一次産業の損失補てんにあてて、原子炉が動いてる原子力発電所には出来るかぎりの震災補強策を施したうえで、周辺住民に『原子炉手当て法案(時限立法)』や地方自治体への補助金を大盤振るまいしてでも、電力を確保すりゃあいいんです。

 どうせばら撒くんなら、もっと建設的な投資をすべきでしょう。


 マニフェストなんてどうで選挙で勝つための詭弁だったんですから、んーなこだわりは捨てて…今こそ日本の危機管理能力と政治の決断力・機動力を世界に誇示するため、思い切った政策を採るべきです。

 総理大臣の椅子とか天下り先のポスト確保とかの利権だとか、政争政権争いなんて下らない話は頼むから国の中が平和になってから皮算用して頂きたい。


 戦後の焼け野原から奇跡の復興を遂げた先人達の底力をもう一度思い出して、本当に国を蘇らせる気迫の篭った国家指導・戦略をして頂きたい。
 


 


 



  ■さて、そんな赤髭の愚にもつかない与太話は置くとして…久々に今週は『勝手に江紀行』を御案内。 


 赤髭は今年新春(もう半年近く前になるんですね( ;=`ω=´))梅の花が咲く頃に大阪市・堺市に出向き、戦国時代随一の自治交易都市だった『堺』の痕跡を求める旅に出かけたことがありました。


 旅の目玉は、大河『江』の初期から登場し、江姫が敬慕した戦国の覇者・織田信長に認められ、太閤豊臣秀吉の筆頭茶道・千利休。

 一回の茶人ながら政治顧問にまで出世栄達した、豊臣政権の心理的指導者・茶聖千利休の生涯を追うことこそ、大阪府・堺をたずねる旅の第一目的でしたが…そこは太閤豊臣秀吉のお膝元であり、数多くの天下人級の実力者に愛された一大交易都市だった堺のこと。



 その歴史の奥深さは当然、たった一回や二回の『勝手に江紀行』でご紹介し切ることが出来ません。
 
 前回は『堺・大坂戦国歴史案内』と題し、大阪府は堺市を舞台に戦国武将達の残した歴史夢舞台の痕跡を追いかける旅を御案内致しましたが…

 今回はその中編、堺の町に今も残る織田信長や豊臣秀吉、そして徳川家康達の歴史史跡を辿っていきたいと思います。
 

 それでは、ご一緒して頂ける方々のお時間を少々拝借。。゜+. m9っ;・`ω・´)っ 。+.゜ Time Stopper !!


■さて、天下制覇を達成し唯一無二の権力者となった豊臣秀吉(岸谷五朗)も劇中ではいよいよ五十路後半に差し掛かり、信頼していた数多くの親類縁者に先立たれ完全に憔悴してしまいましたが…そんな中でも勢いを失わないのが徳川家康(北大路欣也)。

 前回では大河ドラマ『江』でも語られた本能寺の変、その際に逗留していて『神君伊賀越え』の出発拠点となった堺・妙國寺をご案内したのですが…まだまだ堺には家康にまつわる不思議な名所が残っています。
 



 後に武士政権の第三期、二百五十年余にもわたる天下泰平をもたらした江戸幕府を開いた東照大権現・徳川家康の立身出世はこの堺・妙国寺から始まったと説明致しましたが、実はその家康が波乱万丈の生涯を閉じたとされている、いわば終焉の地もまた、この堺に存在するのです。
 

 『え、徳川家康は1616年…江戸徳川幕府の安寧を見届けて、駿府城で死んだんじゃなかったのか?確かほら、天ぷらの食い過ぎで。』ですって?( ;・`ω・´)
 

 はい、いちいちごもっともなご意見ですが…。そこはそれ、事実は小説より奇なりと申しまして…なぜか、その定説に疑問の一石を投じたくなるような伝承がこの堺には残されているのです。

 それが、この龍興山-南宗寺(りゅうこうざん-なんしゅうじ)。

 前回ご紹介した妙國寺同様、法華宗の古刹として堺でも古い歴史を誇る寺院です。
 
 
 南宗寺は1557年(弘治三年)、時の幕府管領代(現副総理大臣)で戦国時代きっての実力者だった三好長慶が、亡き父・三好元長の無念を弔い畿内における三好家の菩提寺として建立しました。



 妙國寺を開基した三好義賢は長慶の弟であるため、兄弟そろって仏法への信仰が厚かったことが判ります。





 なお、この三好長慶の姉の最初の婿が千利休。のちに南宗寺は千利休とも深い関係を持つことになります。
 




  さて、そんな歴代戦国武将に縁故ゆかしい南宗寺の山門をくぐると、まずお出迎えしてくれるのがこの国指定重要文化財・甘露門です。


 さすがは堺屈指の古刹、いきなり重文がお出迎えです。以前訪れた和歌山県・根来寺の山門も立派でしたが、こちらも負けていません。




 その隣に位置する徳泉院




 こちらは臨済宗の寺院で京都大徳寺の関係にあたるお寺ですが、なぜか南宗寺とは立地関係が似たところとなっているようです。





 見事に整備が行き届いた南宗寺の庭園。その隣には千利休の弟子・山上宗二の墓と菩提を弔う『一会塚』が今も残されています。

 




 『御成額札』が掲げられた小さな御堂、『坐雲亭』(ざうんてい)。


 この御成額札には、江戸幕府の二代将軍・徳川秀忠と三代将軍の家光がこの南宗寺を訪れ、参拝したことが記録されています。なぜ天下の公方様がここを訪れたかは後の段で。


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 戦国乱世百年の混沌に終止符を打った偉大なる征夷大将軍、東照大権現こと徳川家康でござる。


 今や我が居城・江戸城はやんごとなき方の居館となり、駿府城は観光名所になり下がったようじゃが…日光東照宮や、この堺の町はまだまだ歴史情緒が残っておるようじゃな、結構結構。
 


 さぁて、さっそくであるが…この記事を読んでおる皆皆にこの家康がひとつ禅問答じゃ。
 

 この南宗寺…三好長慶殿が建立後、十年たたずに松永久秀によって焼亡、再建後も大坂夏の陣の戦火で焼けるなどして散々な目に会っておるが、1617年にも後押しするものがあって再建されておる。都合、二度燃えて三度蘇っておるわけじゃが…。

 実はこの寺、本来はここにあるべきではない不思議なものがあるのじゃ。  

 



 …んー。まだ問題の途中じゃというにもう判った様な顔をした諸兄姉が居るようじゃの。先に答えを叫ぶなどの野暮はせんようにな。
 

 さて、その『ここにあるべきではない不思議なもの』とは一体何か、以下の三択より答えるが良い。


 なに、太閤より選択肢が少ないとな。 …――わしには、筒井康隆が何十年も前に使ったネタを堂々とぱくって我が物顔に扱う(山陽新幹線ネタ)などという厚顔無恥なことは出来んぞ(苦笑。

ヒントは…――そうじゃのう。『おまえはもう、死んでいる。』かの。
 

南宗寺は禅寺なのに、なぜか織田信長vs本願寺一向一揆衆の石山合戦で死んだ者の供養塔がある。

江戸幕府を開き、豊臣家を滅ぼして天下静謐を達成後に駿府で大往生したはずの徳川家康の墓がある。


大坂夏の陣でほろんだはずの豊臣秀頼の肖像画が保管されている。 



 
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 …―――家康公も派手なヒントの大判振る舞いやりますね。正解は…。


…『おまえはもう、死んでいる。』といえば北斗の拳、北斗の拳と言えば原哲夫先生、原哲夫先生といえば『影武者徳川家康』。



 正解は◆◆江戸幕府を開き、豊臣家を滅ぼして天下静謐を達成後に駿府で大往生したはずの家康の墓がある。』です。





 なぜか堺・南宗寺には徳川家康の墓とされる無銘の無縁仏が伝承され、今に伝わっているのです。
 

 その縁起は大坂夏の陣のこと。


 真田幸村の捨て身の突撃で徳川軍の本陣は崩壊。三方が原合戦以来の窮地におののいた家康は死地を逃れようと遁走し、戦場に落ちていた棺桶に身を潜めたのですが…。


 …――人の生き死にが掛った戦場を、足軽に担がれて右往左往する棺桶に疑問を抱いた西軍の後藤又兵衛がそれを見とがめ、棺桶めがけて槍の一撃を御見舞い!!


 家康は槍に刺されても息を殺し、そこは難を逃れたのですが…残念ながら槍は致命傷となり、この南宗寺で力尽きて死亡。


 家康死去を知られまいとした東軍上層部によって家康の死は隠され、その後は影武者を立てて江戸幕府の成立に尽力した…そんな伝説が残されているのです。
 

 実際、このなんでもない法華宗の寺には先ほども言ったように徳川秀忠・家光ら家康の子と孫がわざわざ上洛途中に立ち寄って参拝しており、それが家康の墓があることのへのなによりの裏付けとされているのですが…―――。




□大坂夏の陣の真田幸村隊突撃は、皆さまご存知の通り最終決戦でも〆中の〆、戦国最後の大舞台最後の大フィナーレ。

 後藤又兵衛はその前日に戦死していますから家康を突き殺せるはずがないですし、南宗寺もそのときには戦火で焼けおちて灰燼の黒こげ炭、家康を弔おうにも葬儀が出来ない状況。



 なぜ家康討ち死に、影武者説などという荒唐無稽な話が出回ったのかは…昔から敗北した側のヒーローにも同情しやすい気質な日本人のこと、豊臣贔屓の大坂人達が生んだ『ひいきのひきたおし伝説』と見るのが自然でしょう。
 実際、大阪城の少し南には、大阪城陥落の際に真田幸村が豊臣秀頼を引き連れて薩摩(現鹿児島県西部)に逃れる際に使ったという秘密の抜け道跡、なんてものまで残されているのです。
 



 さて、話の主題を再び南宗寺に戻しましょう。『御成額礼』が飾られている坐雲亭を少し過ぎた先に見えてくる小さな墓石群。



 これこそが、先日に大河『江』でも切腹して表舞台から去って行った侘び寂び茶道の祖・千利休とその子供達の供養塔(お墓)です。


 向かって正面が千利休本人の供養塔、右手側が表千家一門、左手側に裏千家一門、そして手前にはこの堺で千利休の作法を連綿と伝えた武者小路千家の一門が眠っています。



 千利休は京都の屋敷(現在の清明神社)で切腹し、京都大徳寺に葬られましたが…故郷である堺にも、ゆかりのある南宗寺に供養塔が建てられています。

 高名な戦国武将や著名人ともなると、こうしてゆかりの地のあちこちに墓ないし供養塔が建てられ、戦国歴史Fanのお墓参り行脚をたびたび困惑させてくれます。利休の墓として格式が一番高いのは大徳寺聚光院のものですが、こちらは一般非公開になっています。
 


 綺麗に手入れが行き届いた利休とその一門の墓。

 茶頭でありながら豊臣秀吉の政治顧問として政治に関与した結果、武人として切腹し生涯の露を散らす数奇な運命を遂げた利休の面影を見るようです。




 利休が残した茶室『実相庵』。



 その実相庵を取り囲むように配置されているのが涼やかな音色を響かせる水琴窟や利休が愛した袈裟型手水鉢、利休の師・武野紹鴎が残した六地蔵灯篭。いずれも、五百年の時を超えて今も侘び寂びの精神を平成の世に伝えています。





 南宗寺には他にも千利休の高弟・古田織部が好んだ枯山水の庭園や、国指定重要文化財に指定されている唐門、釈迦如来を本尊とし天井壁に八方睨みの龍が描かれている仏殿など、多数の見所がある優良な観光スポットです。





妙国寺で寺宝の見学を済ませたら、散歩がてらに寄るのも一興。
 





  ■さて、お次は大河『江』で織田信長(豊川悦史)も手にしていた戦国時代の最新兵器・火縄銃を間近に見物できる穴場スポットを御案内しましょう。今でも、堺の職人さん…といえば鍛冶師のこと、街のあちこちには往年の賑わいをしのばせる鍛冶屋敷がいくつかありますが・・・。





 そんななかでも特に貴重な思い出を提供してくれるのがこの『堺鉄砲館』。堺市が発行している観光マップでも所在場所くらいしか表示されていませんが、戦国歴史Fanにとっては穴場中の穴場といえる隠れスポット。何せ…。
 


 この平成の御時世となっては、戦国武将や戦国時代に関する町おこしイベントや好事家達の催し物でしか見ることが出来ない火縄銃をまぢかに、しかも手にとって眺めることが出来るんです。
 

 しかも入場料が100円、当然予約や事前申し込みは必要ありません。


 もともと火縄銃に限らず各種鍛冶屋の多かった堺の近辺でもその歴史の名残を残す堺町でも、『火縄銃の歴史をもっと色んな人に知ってもらいたい』という館主が個人的に公開を決断。



 江戸時代製で、やや織田信長や秀吉時代の火縄銃とは種類が別になりますが、実際に火縄銃をその手に持つことができるというのはある意味貴重な体験です。
 

 



 持ってみると判りますが、火縄銃は結構重たいです。

 実際にこんな重量感のある鉄砲をかついで戦場を駆け回り、いざとなれば敵を殺すつもりで玉込めをして射撃するとなると、かなりの筋力や技術、そして度胸が必要だったろうことは想像に難くありません。
 

□実際、越後上杉家や大河『江』で初(水川あさみ)が嫁いでいる京極家では『火縄銃を持つ足軽は余計な武器やよろいを持つ必要はない』と軍事掟書に残されています。これは火縄銃の操作に神経を集中させるためだとされています。
 


 阿鼻叫喚響き渡る戦場で、この火縄銃一本を頼りに駆け抜けて行った男達の汗と武勲の匂いが、古式蒼然とした鍛冶屋敷と火縄銃から伝わってくるかのようです。









 戦国の覇者・織田信長がその特異性にいち早く着目し支配権を確立、関白太政大臣・豊臣秀吉の権威のもと遠くヨーロッパにまでその富と名誉を知らしめた歴史由緒古き街・堺。

 皆さんもぜひ、堺の町を吹き抜ける歴史の風を感じる旅に出かけてみてください。




 

  ■と、いうわけで…大河『江 ~姫たちの戦国~』に関連する人物やそれにまつわる史跡を大阪府に訪ねる『勝手に江紀行』、いかがだったでしょうか。


 織田信長や徳川家康に関する戦国歴史の痕跡は、名古屋や静岡、そして東京に集中していると思われがちですが…こうやって大阪府をよーく観察してみると、思いのほか結構な数が命脈を受け継いでいます。東海まで足を延ばせない信長・秀吉Fanには歴史観光も出来て大阪見物まで出来るというプランは魅力的なのではないでしょうか。


■さて、次回『勝手に江紀行』では、いよいよその死期が近づきつつある金色の覇者、尾張の貧農から我が身一代で関白太政大臣になりあがった奇跡の天下人・豊臣秀吉の栄華と誇りの象徴である『大坂城』を御案内する予定です。

 次回のブログ更新に御期待ください。 ( ;・`ω・´)




 ■ それでは、今回もいよいよ当ブログでの扱いがお菓子のおまけ、しかももう持ってるのに当たっちゃった重複モノ以下になりつつある大河『江』の感想&与太話、その第二十七話『秀勝の遺言』について徒然とお話していきたいのですが…。


第二十七話『秀勝の遺言』あらすじ
■江(上野樹里)は初めての子・完を産むも、夫・秀勝(AKIRA)を失った悲しみから抜け出せず、わが子を抱くことすらできないでいた。


 一方、江戸では秀忠(向井理)が家臣・本多正信(草刈正雄)相手に、秀吉(岸谷五朗)の蛮行をあざ笑っていたが、秀勝死去の知らせに、いつになく神妙な表情を浮かべる。

 年が改まり文禄2年(1593)、姉・初(水川あさみ)が聚楽第を訪れ、江を立ち直らせようと奮闘する。しかし、江は悲しみに暮れるばかり。


 そんななか、江のもとにガラシャ(ミムラ)がやって来る。ガラシャは、本能寺の変以来の自分の不遇、そしてキリスト教への信心によって救われたことを語り、「あなたの強さを信じて」と江を励ます。


 そして、九州から大坂に戻った淀(宮沢りえ)と再会した江。淀は再びの懐妊を告げ、「希望を持つのじゃ」と語りかけるが、江はそれでも立ち直れない。


 そんなとき、朝鮮から秀勝の遺品と文が届く。「そなたに何も残してやれなかった」とわびる秀勝の言葉に、江は涙しながらも、そっと完を抱き上げる。


 そんななか、1592年8月…淀が男児を出産する。


 「拾」(ひろい)と名付けられたその子こそ、のちの悲劇の貴公子・豊臣秀頼である。
 喜びに沸く豊臣家のなかで、一人不安を覚えるのは関白・豊臣秀次(北村有起哉)だった。豊臣家の跡継ぎを巡って、不穏な風が吹き始めたことを、江も感じていた…。


■さて、今回は二回目の結婚…幸せな蜜月生活もたった一話で寡婦、しかも亡夫の娘を出産という見ていて鬱になりそうな展開でしたが…――。

 諦めかけていた待望の第二子・拾(後の豊臣秀頼)を授かった秀吉(岸谷五朗)の、まるで秀吉晩年の狂気振りをデニーロアプローチしたかのような見事な感情表出・狂喜を演じきっていたのに対し、
 江(上野樹理)の最愛の人を失い自失茫然、恍惚の人になったかのような表情…主要人物の陰陽がくっきりと出た回だったように思います。


 『秀頼が気に入らない者があれば、構わないからぬまでぶん殴れ。』

 とは、我が子を溺愛するあまり天下の覇者たる矜持を失いただの親馬鹿になった秀吉が秀頼に書き送った書状にある言葉ですが、もはや天下統一時の覇気と自信に満ち溢れ、江のにっくき仇敵を演じていた秀吉とは、茶々を生涯かけて守ると誓ったあの秀吉とは、今じゃ別人の様な変わり様。

 ですが、これが立身出世、天下人の栄達まで駆け上り終わった男がたどる老醜…登り切ればあとは下るしかない男の横顔として非常に素晴らしいと思います。

 時にコミカルさが鼻をつくこともありましたが、やはり豊臣秀吉という人物は歴史物語を強く引き締めてくれますし、そうあってしかるべき好演が出来る名優さんがキャスティングされるべきなんですねえ、やっぱり。

 そういう意味では、重要なポストには豊川悦司さんや北大路欣也さん、そして岸谷五朗さんといった実力派を置いた『江』はさすが歴史大河、と言えるのですが…。



 …―――あー、その…なんだ。( ;・`ω・´)



 岸谷さんの鬼気迫る狂乱振りや、後継者誕生で一抹の不安を禁じ得ないでいる豊臣秀次の表情と、江のただただ上の空な、悲哀の伝わってこない感情色があれな顔とかがクロスマッチされると、ちょっと見ている側としてはテンションに困る。

 …―――たしかに江が自失茫然、悲嘆にくれるのはわかりますが…見てきたがわからすれば、なんでそこまで豊臣秀勝と江の運命に涙できるのかのとっかかりが弱い。感情移入しろって言われても話が性急すぎて出来ない物語展開とかの、ギャップが、ねぇ…。



 細川ガラシャさんを好演するミムラさんの頑張りや、キリスト教と夫・細川忠興との不和が深刻に、けれどリアリティたっぷりに語られていたこともあわせると…なんだかいよいよ『もっと主人公&脚本演出陣営頑張れよ』と思えて仕方ない、残念な回でした。

        
                【 45点 】
           ( ;・`ω・´)っll

本年大河『江 ~姫たちの戦国~』第二十八話「秀忠に嫁げ」は日曜夜八時、明日放映予定です。

勝手に江紀行 with 大河『江』第十九回 初の縁談 感想

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【勝手に大河『江』紀行 〜大阪城 vol.2 】
■新春の穏やかな気候を感じることすら出来なかった波乱含みの2011年も、気づけばもう間もなく梅雨入り。気の早い台風の到来で日本列島には早くもジメジメ感が広がっていますが…当ブログをご贔屓にして頂いている皆様はいかがお過ごしでしょうか。

 新聞やニュースを見ていても景気の悪そうな話や福島原発の事故問題と、はっきり言って頭の痛いことしか耳目に入らず、憂鬱な気分になってしまっている方々も多いのではないでしょうか。

 世間様が暗いおかげで観光・行楽需要も随分と磨り減っているらしいとのお話ですが…赤髭が思うに、こういう時こそ颯爽とした気持ちに心を切り替えて、新たな充実感と希望を胸に点すために心機一転、知らない場所や行って見たかった史跡などに赴き、新発見や新事実を知識として吸収する、心の洗濯をするべきなんじゃなかろうかと考えるわけです。( ・(,,ェ)・)

 おりしも今年の大河は『江』、つまりは戦国歴史ブームに到来した戦国大河物語。某国営放送はもちろん、民法でも戦国時代の歴史にまつわる観光史跡の紹介には例年以上に力が入ってます。

 ただの観光には無い、美しい国・日本の二千年以上の時間を感じられる歴史物語は、鬱屈した気分をお洗濯するには丁度良い趣向ですよね。(*-(,,ェ)-)

□そこで、今回も【勝手に大河『江』紀行】の登場です。赤髭もミーハーなもので、『大河の舞台になるのならば話のタネ拾いにひとつ、出向いてみよう』と大阪城にはけっこうな時間をかけて巡ってたりしてたわけです。

 今週第二回では、前回に引き続いて豊臣秀吉自慢の大居城・大坂城(大阪城)をご案内。

 規模が縮小したとはいえ、かつての天下人の城だけあって見所は一度では紹介出来ません。今回は大坂城内に残る築城当時の名残や雰囲気の香る場所を散策していきます。



 
□大阪城の大手口。戦国時代築城の城は簡単に落ちないように門は基本、狭く入り組んだ通路の奥などに、急角度であるものですが…。



 


攻め落とせるものなら落としてみろ』という豊臣秀吉の気概を示すかのように、大坂城の城門や通路はこの通り広く、巨大なものです。



 しかし、前回もお話したように今の大阪城は豊臣秀吉建築当時のものではなく、幾時代を掛けて再建されたもの。特にその規模や区画は、1620年(元和六年)の江戸幕府が行った縄張りによるものです。




 1620年と言えば、豊臣氏が滅んだ大坂夏の陣から既に五年も過ぎていて、世の中すっかり天下泰平。それを実現した徳川家康もすでに亡く、ときの支配者は二代将軍・徳川秀忠の世となっていました。



 誰とも戦う必要がないのに、なぜ秀忠は豊臣時代の栄華の象徴である大阪城を再建したのか?


 
それは、大阪城を蘇らせることが一石で複数の鳥を落とす妙案であり、徳川幕府百年の国家戦略に関わる重大な意味を示しているからです。

 まず最初に、家来にお金を使わせるという意味。


 大阪城を再建するのは幕府ではなく家来の大名達。建築資材や現場の人足を雇うための人件費を彼らに負担させることで、まだ出来たてほやほやな江戸幕府に逆らう余地を与えないように莫大な出費を強要したのです。


 これは、外様大名の忠誠心をはかることや、築城費用を天下に流通させる…今で言う『公共事業で景気を良くしよう!!』という狙いも含まれています。

 次に、『天下が豊臣氏から徳川幕府の世になったことを知らしめる』という一大宣伝の意味。実は豊臣氏は京都や大坂では庶民に根強い人気がある政権でした。



 徳川家康は1611年(慶長十六年)に京都二条城で弱冠十八歳の豊臣秀頼と謁見していますが、この時に彼が思ったより聡明な名君であると同時に、京都大坂といった上方の一般庶民から絶大な支持と人気を集めていることに危険を覚えたといいます。

『このままでは、単純に豊臣氏を滅ぼしただけでは徳川幕府は悪者あつかい、秀吉・秀頼が"伝説"になってしまうかも知れない…』

 豊臣氏が滅んでもなお人気が萎えない情勢に、徳川政権が考えたことは『かつての豊臣時代の栄華の象徴である大坂城を徳川幕府の手によって盛大に再建することで、天下の支配者が徳川家にうつったことを大々的にアピールする。』という策戦。



 そのために、江戸幕府は大坂城再建のために一度豊臣氏時代の石垣や城郭を土に埋め、〜10メートルという高い盛り土を積み上げた上に新たな石垣を積むという手間をかけています。

 1629年(寛永六年)、こうして豊臣氏時代の四分の一の城郭規模…けれど、かつてよりも高く、総床面積も広い荘厳な天守閣を備えた新生大坂城が誕生したのです。


□もっとも、残念ながら新生大阪城も平成の世に入るまでに幾度も災害に遭い、徳川幕府が威信をかけた天守閣も1665年(寛文五年)、再建から半世紀を待たずに落雷で消失。

 その後も昭和期再建まで天守閣は再建されることがありませんでした。天守閣以外の貴重な建造物も明治維新での戦火や太平洋戦争の空襲で殆ど残らずといってよいほどに消失してしまいます。
 現代、私達が見る大阪城はほぼ全域が戦後の再建によるものです。

 幾度もの年月を過ごし、それでも築城当時のまま平成の世にあった姫路城が世界遺産に登録されたのも、よくよく考えればこの国に訪れた数多の戦火を潜り抜けて生き残ったからこそなんだということを再確認できる歴史。( ・(,,ェ)・)


 これを踏まえたうえで…今回の『勝手に江紀行』は、大阪城の『過去』を偲ぶことが出来るスポットを重点的に紹介していきます。

 
豊臣時代の遺構も江戸幕府再建の痕跡も、昭和期の近代築城の影にうずもれてしまった大阪城。その威容の中から、歴史の確かな匂いを辿っていきましょう…。


□大手口枡形の巨石。これは1620年(元和六年)、徳川時代に再建された当時よりあるもので、加藤熊本藩二代目当主で築城の達人と呼ばれた加藤清正の忘れ形見・加藤忠広が瀬戸内海の小豆島から運んできたとされるもの。

 秀吉時代を超える巨石を引っ張り出した徳川秀忠や配下大名のの自己顕示欲を物語る確かな歴史の証拠です。


 残念ながらこの頃には江姫も大坂城には居なく、最後の伴侶となる彼と一緒に江戸城住まいの真っ最中でしたが…。


□けれど、この超がつく巨石(それでも大阪城以内の巨石ランキングは四位!!)が大坂城内に運ばれていく様は、平和になった天下泰平を感受しつつも、昔を懐かしんで…ひょっとしたら、徳川秀忠も眺めていたことがあるのかもしれません。


□大手門を通過途中に、ふと上を見上げてみると…昭和期再建ながら、戦国の遺風を漂わせる立派な屋根裏の梁組みが見えました。




 豊臣秀吉築城当初には黒塗りに金箔を押した瓦が太陽の光を浴びて輝いていたといいますが、きっとその煌びやかさを支えたのも、こんな重厚な屋根組みだったのでしょう。




 大阪城大手口を抜けたすぐ先にある、千貫櫓(せんがんやぐら)です。

 この櫓も残念ながら秀吉時代のものではありませんが、『千貫櫓』という名前は大坂城の歴史に受け継がれた名前。


 秀吉時代の大坂城にももちろん千貫櫓はありましたし…その大坂城が建つ前、浄土真宗・石山本願寺の伽藍があったころから、千貫櫓の名はこの地に存在していました。


 名前の由来は、浄土真宗の一向一揆と戦っていた織田信長が石山本願寺を攻めあぐね、なかでもこの千貫櫓から打ち込まれる弓矢に悩まされたとき『千貫文(役八千万円)払ってでも奪い取りたい櫓だ』と織田軍に言わしめたからというもの。
 その歴史は、秀吉の大坂城より五年も十年も古いものです。


 □大坂城西外堀から城内を眺めると、その一番端に据わっている小さな櫓が『乾櫓(いぬいやぐら)

 この櫓も、大阪城の前身・石山本願寺時代から名を残す防御拠点のひとつで、十年に渡って続いた織田信長vs本願寺の激戦の舞台となりました。


 大河『江』でも抜群のインパクトを残した戦国の覇者、幼い江姫が敬慕した織田信長が、この乾櫓と千貫櫓を突破出来ずに苦しみ…にらみ付けたときに瞳に映ったのも、きっとこんな風景だったのかと思えば感慨も深くなるもの。




□そして…大坂城の建っているこの地が、かつては織田信長と一向一揆との激戦の舞台だったことを物語る確かな記憶が、この『蓮如上人袈裟懸けの松。

 蓮如上人(れんにょしょうにん)とは、浄土真宗第八代門主のことです。かの有名な一休さんのお友達だったと言いますから、大阪城よりも更に百年近く古い歴史の人物ということになり…そのぶん、またこの大阪城にまつわる歴史の厚みが増します。


 この地が大坂城ではなく『石山本願寺』だった頃は、阿弥陀仏の教えと救いを願った真宗門徒が大勢、この土地で修行していたのでしょう。


 蓮如上人が袈裟をかけたという松がそれを偲ばせてくれ……―――ん、ってどこよ。( ・(,,ェ)・)


 …いまや、切り株だけしか残っていないようです。

 いったいいつの頃から切り株だけになってしまったのかは説明書きにもありませんでしたが、形はどうであれ…――いまや豊臣時代の記憶がわずかしかない大阪城でも、数少ない歴史の証言者です。

 『はではでしくていやな城』だったとされる大坂城で人質同然に暮らしていた江たち三姉妹も、きっとこの松に過去の歴史を思い、叔父・織田信長に敗れるまでは浄土真宗の総本山だった栄華の夢のあとを、この松に見たのでしょうね…。



 □青屋門。大阪城二の丸の北出口にあたる場所です。


□現在の青屋門は昭和期に再建築されたもので、その姿も当時とは大きく違っていたであろうと考えられていますが…青屋門自体が出来上がったのは、徳川幕府による大坂城再建築の頃。



 時はすでに江戸時代、もう徳川家康も豊臣秀吉も亡くなっていましたが…江姫はこの大坂城が蘇るという一大プロジェクトを耳にすることが出来たはず。


 ひょっとしたら、修繕の完了した大坂城をひそかに、この青屋門から眺めていたやもしれません。




 だとしたら、こんな感じでしょうか。大河ではおてんば姫ッ気の抜けない江姫ですが、あの調子ならきっと世の中、平和になっても…―――こうやって、徳川幕府謹製の大阪城を眺めていたに違いありません。






 大阪府の誇る、近代的な一大観光スポットとなってしまった感のある大阪城ですが…外堀や内堀、本丸建築位置は多少とはいえおおむねでは変わらないはず。

 今日もこうして、城郭内部のあちこちにひっそりと、けれど確実に…過去の偉大な戦国武将や歴史の面影を平成の今に現しています…。


 二週に渡って紹介させて頂きました『勝手に江紀行』でしたが…いかがだったでしょうか。連載記事から大河『江』からは伝わり方の乏しい歴史的な建築の雰囲気やたたずまいを感じられたなら、赤髭も幸いに思います。

 次回は、さらに趣向を変えてもう一幕。
【大河『江』と戦国歴史を楽しく学べるシリーズ】と号して、戦国時代を舞台とした漫画や文庫本などを介したいと思います。

 歴史痛を自負する(すんな)赤髭が目を通してきた無駄に多い資料書籍のなかから、判りやすくて面白いものを幾つかピックアップし内容の紹介や見所読みどころ、面白い箇所などを解説していければと考えております。

 次週の当ブログ更新に御期待下さい。( ・(,,ェ)・)b


 ■ それでは、今回も毎度一週間遅れで大河『江』の第十九話『初の縁談』、感想と歴史痛的補説の開始です…が。

 今回は歴史痛的においしいと思ったポイントは見当たらず、初の天然で痛さの感じられるおてんばぶりや我侭模様、それにふりまわされる茶々や江の心模様に重点が置かれた回だったように思います。

 特に初の描写方法はちょっと見ていてしっくり来ない。あの状況で姉に京極高次と一緒になりたい!!とか頼んだら姉の立場がどうなるのか判らないほど痛い子なら、それは可愛らしい痛さではなく我侭すぎて引く痛さではないのかなと(汗)


 まぁ、今回も相変わらず豊臣秀吉演じる岸谷さんの陰陽がくっきりした味のある表情や、そんな彼の横顔に少しづつ惹かれていく茶々(宮沢りえ)といった見所があったお陰でなんとか視聴出来ましたが。

 いやぁあ、前回の予告では絶対に初の縁談を交換条件に側室入りを迫るんだろうなと思っていた秀吉があんなオットコマエになるとは。…――毎回毎回、次回の展開を予想立てている赤髭ではありますが、あの展開には思わず惚れかけた(何。

 …――もっとも、そこまで視聴者を惹かせておいて最後で思いっきり引っ叩かれる展開で、しっかり笑いどころを抑えているというのも面白いところですが。

 好感が持てない黒い秀吉も良いですが、愛しい彼女に嫌悪されて上の空になったり、そうかと思えば『強引にモノにするつもりはない』だなんて、一大の傑物らしい気概を見せてくれたり…今回のようないい意味でも悪い意味でも人間くさい、英雄化されていない秀吉もまた魅力的でした。

 当初は『斬新な切り口で豊臣秀吉を切ったな』と思いましたが、なんだかんだで最近はこのファンタジー戦国大河の『良い部分』にも感化されているのやもしれません、赤髭。(優柔不断だなオイ



 さて、次回予告ではいよいよ、あれだけ距離の開いていた秀吉と茶々が急接近!!…一瞬ではありましたが、二人が月夜の闇に抱き合うシーンまでありました。

 実父と養父、二人の父を死に追いやった不倶戴天の仇である猿面冠者と、絶世の美女の忘れ形見である見目麗しい戦国の姫君との恋の行方。その結末が二人の純愛に落ち着くまでに、次回いったいどんな急展開が待ち受けているのか。


本年大河『江』第二十話「茶々の恋」は日曜夜八時、明日放映予定です。


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