"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第四十三夜】

JUGEMテーマ:コラム



 戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)

 

 ■七月二日のトリビア

  織田信長の上洛前、畿内に君臨した三好長慶。
 実は二度も暗
未遂事件に巻き込まれており、
 そのうち一度は兇刃を受けて負傷している。

 

 

 

織田信長をも下に見た室町幕府最後の梟雄、
その最盛期に遭遇した二度の奇禍とは


 織田信長や豊臣秀吉に知名度では劣れど、その武勲や才覚には見劣り無し。

 赤髭が事ある毎に『下人』と強調する、阿波徳島が生んだ戦国武将―――といえば、読者の皆様には既に御馴染みとなっているでしょう…三好(みよしながよし)に他なりません。

 赤髭も長慶Fanの嗜み、歴史的なゆかりのある地は方々巡り歩きました。
生誕の地・徳島県芝生
(しぼう)城跡は勿論の事、三ヶ所ある御墓も既に二ヶ所までは御参りしています。
( ・(,,ェ)・)最後の一ヶ所は京都府大徳寺・聚光院(じゅこういん)なのですが、聚光院は一般非公開。数年に一度行われる特別参拝でも、三好長慶のお墓は参拝不可能となっております。何とかインチキ参拝する手はないもんですかね(嘆息。


 



 

 

【広告】 京都大徳寺は有料駐車場を完備。
自動車で出かけるなら、燃費向上・エンジン磨耗修復に効果的なKENDALLオイルを是非お試しあれ!!

 




 

 

 

 最盛期には主君である管領細川家はおろか足利将軍家までも京都から追い払い、名実共に『天下人』として京都・五畿に君臨した三好長慶ですが…―――実は二回も暗殺未遂事件に遇していることは、案外と知られていません。

 


 時は1551年(天文二十年)、3月4日


 長慶は一千人余りの従者を連れ、室町幕府政所執事・伊勢(いせさだたか ????〜1562 伊勢守)の屋敷を訪れました。

 伊勢貞孝は、かの北条早雲を輩出した幕府の名門・伊勢家の総領です。本来は足利将軍家に逆らう三好家とは不倶戴天の敵同士、のはずでしたが――――三好家とは共闘関係にあり、長慶は賓客として酒宴で歓待されることになりました。
( ・(,,ェ)・) 余談ですが、1562年(永禄五年)にはこの歪な友好関係は破綻に至り、伊勢貞孝は京都船岡山で三好義興・松永久秀軍に敗れて討死しています。


 3月7日、その返礼として今度は長慶が京都逗留の際に宿所としていた吉祥院に貞孝を招待し、酒宴を催したのですが…―――その夜、その吉祥院に”小童”…小さな子供が入して来たというのです。

京雀
(きょうすずめ)、と言えば京の都に住む、耳聡くて口喧しい者達の代名詞です。

 彼らはその気になれば京都近隣で起きた合戦場まで手弁当持って”観戦”しに行くなど、大胆不敵な好奇心を持ち合わせて居ますが…流石に幕府の実力者二人が宿泊しているところへ、しかも夜に忍び込んできたというのは頂けません。

 すぐに小童は捕縛され、厳しい拷問の末に『屋敷を
き討ちして、長慶と貞孝を殺すつもりだった』と、驚愕の魂胆を白状しました。


 翌8日早朝には近所で潜伏していた共犯者が捕縛され、彼の証言をもとに下京で更にもう一人の共犯者が捕縛されました。

 彼ら三人の言では『同胞は六十人近く居る』との事でしたが、更なる逮捕者は出ず…8日夕方、三人は揃って処刑されました。(言継卿記)


 次の暗殺未遂事件は、その9日後…―――3月14日の夕暮れ時に起こります。
 伊勢貞孝の宿所、というから邸宅でしょうか―――またしても長慶は酒宴に招かれ、座敷で寛いでいたのですが…――宴に参加していた幕府奉公衆・進士
(しんじかたみつ ????〜1551 九郎)が突如として抜刀し、長慶をう暴挙に出たのです。

 幕府
公衆(ばくふほうこうしゅう)とは江戸幕府で言うところの『旗本』と言うべきでしょうか、
戦国大名のように広大な領地や軍事力こそ持っていませんが、格式では将軍家の直臣なので名誉ある者達です。

 普段の勤めは将軍家を守る護衛程度のものですが、いざ合戦となれば将軍麾下の親衛隊となって戦うのですから、忠誠心に厚く勇敢な者が選ばれていたようです。

 

 進士賢光は長慶に踊り掛かって”三刀突いた”とありますから、脇差か何かで刺殺するつもりだったのでしょう。
( ・(,,ェ)・)座敷で太刀や打刀(うちがたな)を抜いても、鴨居や襖が邪魔になって斬れません。脇差を使うのであれば斬りかかるより刺すべきで、この”三刀刺す”(みがたなさす)という表現は、武将が相手を殺しにかかるときに良く出る言葉だったりします。


( ・(,,ェ)・)後年、忠臣蔵で有名になった浅野内匠頭は『小さ刀』という刃渡りの短い儀式用の刀で吉良上野介に”斬りかかった”らしく、「初手は突き、二度目はなどか切ら(吉良)ざらん」と江戸の庶民に、武士らしからぬ無知を嘲笑われました。
 

 

 


 で、長慶はどうなったかと言うと―――…はっきりとは判りませんが、どうやら傷で済んだようです。

 


 『二刀通った』(厳助大僧正記)『数ヶ所、手傷を負った』(長享年後畿内兵乱記)などと史書によって記載内容に揺れがありますが、長慶の傍に居た同朋(茶坊主)の何阿弥が決死の覚悟で賢光を抱きとめ、長慶は振り下ろされた刃を『』で受け止めたと言いますから、刀を抜く暇もないほどの急襲だったのでしょう。(足利季世記)
 

 


 


 暗殺失敗を悟った賢光は、即座に自身の首を掻き切って自害しました。


 進士賢光は領地問題で前々から長慶に恨みがあったとも、『御所様から”長慶と伊勢貞孝をせ”と命令された』とも言われており、襲撃の動機は今現在もはっきり判っていません。
( ・(,,ェ)・)なお、明智光秀はこの進士家の出身という説があるそうです。後に幕府申次衆として活躍した
進士晴舎(しんじはるいえ)は光秀の長兄、賢光が三兄に当たるのだとかで、光秀の家臣には進士貞連・伊勢貞興(貞孝の孫)など、この事件に関係した武将の縁戚が名を連ねています。


 


 ですが、”御所様”とは時の室町幕府将軍・足利義(あしかがよしてる 1536〜1565 従四位・征夷大将軍)の事です。


 応仁の乱以降、室町幕府の歴代将軍は武家の総領たる威光も覇気も失って”お飾り人形”と化していたのですが、義輝は鹿島新当流を開いた剣豪・塚原卜伝(つかはらぼくでん)から奥義『一之太刀』を伝授されるほどの”暴れん坊”。

 長慶に京都を追われて近江国(現滋賀県)の朽木谷に亡命していましたが、様々な手段を駆使して長慶一党の排除・京都奪還を目論んでいました。

 

 

実力の伴わない義輝の志は、後に悲劇的な最後を招くことになる。

 

 

 事実、3月15日…つまり二度目の暗殺未遂事件の翌日、義輝が頼みとする管領細川家の家臣・香西元成(こうざいもとなり)と三好政勝(みよしまさかつ)が軍勢を率いて京都東山を襲撃・焼討ちしており、これは長慶暗殺後の混乱を狙って京都攻略を計るものだったとされています。

( ・(,,ェ)・) 三好政勝は姓こそ”三好”ですが、長慶とは敵対関係にありました。近年の研究では後に”三好三人衆”の一角として長慶没後の京都を支配した三好政康(みよしまさやす)と同一人物である可能性が高いそうです。

 


 最初の暗殺計画(小童による放火)、出典によっては義輝の図によるものだったとされており、長慶は足利将軍家に二度も命を狙われたことになります。

 

 

 


 けれど、三好長慶という人は”梟雄”と呼ぶには少々、気のしすぎる人だったようです。

 

 この事件から僅か十ヵ月後の1552年(天文二十一年)1月28日、長慶は自分の命を二度も闇討ちしようとした足利義輝とまさかの和(わぼく。講和条約締結のこと)に至ります。義輝は亡命先の朽木谷から京都に復帰し、長慶の京都支配は終焉を迎えました。 


 足利義輝と三好長慶の主従関係は以後も、仲違いと仲直りを再三繰り返すことになるのですが…―――長慶は1564年
(永禄七年)8月10日にこの世を去るまで一貫して義輝を主君と崇め、その斥を謀ることはありませんでした。

 

 

 

 

五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで By足利義輝辞世の句

 

 そして義輝は皮肉なことに、その一年後…1565年(永禄八年)6月17日、長慶の養嗣子である三好義継とその家臣・松永久秀の謀反に遭い、される憂き目を見ることになるのです。
 

 

 



戦国時代の知られざる秘話やためになる格言、知識を得たい人は
筆者ホームページ『赤髭亭』へGo!!



■赤

http://akahigetei.weblike.jp/main.html

 

 

 

 

 

 


"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第四十二夜】

 




 戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)

 

■三月三十日のトリビア

 秀吉の”軍師”として名高い竹中半兵衛。
 彼が言うには、秀吉の家臣で最
の武将は
       
加藤清正でも福島正則でもない。




”賤ヶ岳の七本槍”の武勲も遠く及ばない?
秀吉麾下で勇名を馳せた
将の存在。


 1579年(天正六年)の或る日、播磨国(現兵庫県)は姫路城城主に就いていた羽柴秀吉は家臣達の忠勤を労うため、酒宴を開きました。

 嘗ては尾張国・中村の百姓出身だった”猿”…――日吉丸も今ではトントン拍子に出世を重ねて”木綿藤吉”…筑前守の官職を拝命した、一端の戦国武将に栄達していました。

 その地位たるや、一国一城の主どころか…”戦国の覇者”織田信長の天下布武を担う、中国方面の軍団長です。
 彼の飛躍を支えたその麾下には、蜂須賀正勝・竹中半兵衛・黒田官兵衛・羽柴秀長といった智勇兼備の名将達…そして福島正則や加藤清正、石田三成に大谷吉継、小西行長といった若き驍将達が轡を並べており、織田家中でも随一の器量良しが揃って居ました。


 

 さすがは”人誑し”の面目躍如。調子乗んな市松っ。
 

 秀吉は杯を片手に上機嫌。宴も酣(たけなわ)となった賑やかさの中、家臣達を前に自画自賛。良い塩梅に酔っ払った家臣達も『三倍、いや倍にはなり申した!!』と自分達の働きに喝采を惜しみません。



 秀吉も調子に乗って、織田信長の覚えも目出度い羽柴軍団の働きを褒め称えたものでしたが…―――その空気に水を差す、死期も間近かと思うほど蒼白い顔をした優男が一人。


 


竹中半兵衛は空気を読めない、いや読まない。
 


 …和気藹々だった場の空気が予想外の反論に硬直し、その静寂が不穏に変わって行ったのは言う迄もありません。
 蜂須賀正勝や羽柴秀長は悪夢の様だった撤退戦『金ヶ崎の退き口』を秀吉と共に生き抜きいた朋輩ですし、後に”賤ヶ岳の七本槍”筆頭として名を馳せた福島正則や加藤清正も、まだまだ血気盛ん。

 ここ数年は病魔に冒され、ぱっとしない存在になっていた軍師殿に駄目出しされてはさぞかし癪に障ったことでしょう。



 『何を言うか!!』と、空気を読めない…否、読まない天才肌の軍師殿に秀吉が反論したのも無理はありませんが…それでも尚、半兵衛は引き下がりません。

 


去年討死した羽柴家最強武将、殿はもうお忘れか?
 

 この言葉が出た途端、宴の雰囲気…そして半兵衛の放言に憤懣やるかたない様子だった秀吉以下、家臣達の意気もすっかりと消沈してしまいした。宮田喜八とは、それだけの働きを為した武将だったようです。


 

宮田喜八さえ生きてりゃ、後々の豊臣家もあんなに凋落しなかったものを。

 


 『豊臣秀吉の家臣』というと、有名どころでは蜂須賀正勝や竹中半兵衛、加藤清正や福島正則、石田三成といった名前が思い浮かびますが…正勝と半兵衛は1567年(永禄十年)、織田信長が美濃国を攻略する前後からの付き合いですし、清正らが活躍するようになったのはそれよりずっと後の事です。
( ・(,,ェ)・) それに、蜂須賀正勝と竹中半兵衛はあくまで”寄騎”…信長直属の家臣であり、秀吉からみると彼らは『本社からの出向社員 兼 見張り番』だったのではないかという説もありますので、そうなると”秀吉の家臣”じゃないんですよね。

 そんな秀吉がまだ身分も低く、正勝たちの協力が得られなかった小身の頃から従った古株の家臣達…その中でも特に”武勇絶倫”と讃えられたのが、半兵衛が言った宮田(みやたきはち ????〜1578 光次・喜八郎)です。


 江戸時代の軍学者・山鹿素行
(やまがそこう)が秀吉創業の功臣として選出した『羽柴天王』の中でも勲一等、筆頭格とされたのが宮田喜八ですが…彼がいかにして『太閤の臣に宮田喜八とて武勇第の人あり(老人雑話)』と謳われたか、その生涯や経歴については残念ながら殆ど判っていません。
( ・(,,ェ)・) なお、『羽柴四天王』の他三人は神子田正治・尾藤知宣・戸田勝隆ですが、尾藤知宣の弟・宇多頼忠の娘が真田昌幸の正室・山手殿だという説があります。

 秀吉が近江国長浜城城主となった1573年
(天正元年)に250貫、秀吉が播磨国姫路城に移ってからは5千石
(一説には七千石)の所領を得る出世を果たした、ということくらい。
( ・(,,ェ)・) この宴会が開かれた1579年頃の福島正則が200石、加藤清正は170石、大谷吉継が150石ほどでした。
 一石は十升、一升は十合。天正頃の一石は現在の貨幣価値でだいたい8万円から10万円ほどであり、戦国武将が領地から得られる平均的な収入が約60%くらいだったのですから…えーっと、福島正則が年収960万円くらいだったのに対し、喜八は年収二億四千万。


 そして1578年
(天正五年)五月、織田家に叛旗を翻した播磨三木城城主・別所長治との戦いでしたという最期が語られるばかりです。



 赤髭が思うに、彼の功績が余り世に伝わっていないのは…喜八が早くに討死を遂げてしまった為に宮田家が
落してしまい、その業績を語り継ぐ子孫が繁栄しなかったせいでしょう。
 幾ら喜八が半兵衛に讃えられる大活躍を為そうと、五百年後にその生き様を伝えた記録や末裔が残らなければ…平成日本がいくら未曾有の戦国時代ブームであっても、私達には知る由がありません。


 宴の席で雁首揃えていたであろう秀吉の家臣達が誰一人と反論出来なかった稀代の猛者でありながら、戦国乱世の桧舞台より立ち去った後は歴史に埋没してしまった宮田喜八。

 もし、彼が長く秀吉家臣として活躍していたら…福島正則も加藤清正も、ひょっとしたら真田幸村すらも、その後塵を拝し続けて―――逆に、歴史の
に埋もれていたかも知れません。


戦国時代の知られざる秘話やためになる格言、知識を得たい人は
筆者ホームページ『赤髭亭』へGo!!



■赤

http://akahigetei.weblike.jp/main.html

 


 


 


"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第四十一夜】

JUGEMテーマ:コラム




 戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■十月六日のトリビア

 問題に対して打つ手段が無いことをいう慣用句
 『手立てがない』。実はこの
"立て"とは
 
合戦の際に足軽が使った盾のことである。



■ファンタジー世界の騎士は御用達なのに、
 戦国時代の武将はなんでアレを持っていないのか?


 
『西洋や幻想世界の騎士や戦士は頑丈そうな鉄の盾を携帯してることが多いけど、なぜ日本の武士ってを持っていないの?

 はい、ごもっとも。
( ・(,,ェ)・) 最近、トリビアと銘打っておきながら本家HPに読み物として掲載できるようなクオリティで正直もったいない長文ばかりが続きましたので、今宵は軽く読み流せるような文章をご案内する予定です。肩の力は抜いて結構ですが、腰の刀は抜かないで下さい。


 最近の戦国時代ブームで注目されるようになった戦国時代の当世具足、またそれ以前から主に家庭用ゲームのRPGなどで子供達の憧れでもあった勇者たちが身を守るために装備する鉄の鎧や兜。
 戦国時代系のドラマや漫画、ゲーム情報掲載紙などを御覧になって、こんな疑問を持たれた人は結構な数いらっしゃるのではないでしょうか。


 
        

 実は、あんまり使い勝手が良くなくて出番が乏しかっただけで、上記イラストの様な足軽用の楯というものは日本の合戦史上にもちゃんと
在はしていました。

 川中島の合戦や長篠の合戦、関ヶ原の合戦などの情景を描いた屏風絵などを見ると、戦場で並べられている長方形の板の様なものがそれで、大楯
(おおたて)と呼ばれるものが主でした。
 大楯は幅が50cm、高さが150cmほどの硬い木材で出来た楯で、裏に自立できる様につっかえ棒の様な支え
(撞木)があり、最前線で戦う足軽が敵の弓矢から身を守るために背中に担いで移動させ、衝立の様に設置して進むものです。

 一枚や二枚、立てかけても大した防御力は期待できないため、複数枚を並べて立てかけることで簡易の矢避け要塞を作ることに利用され、横一列三枚が基本。この並んだ上体の楯を
(かいだて)、わざとちぐはぐに並べて隙間を作り、攻撃用の出撃口を作ったものを『めどり羽(は)』と呼びました。

 戦場の主戦力だった足軽や雑兵がまだ白兵戦を担当していた平安時代末期から鎌倉時代前期には大いに用いられ、これに対して個人用の楯…横幅が40cm、縦幅が50〜60cmの手持ち楯も大いに重宝されました。
 まだ槍や薙刀などの長柄武器が登場していない時代、太刀を抜いて戦場を駆け抜けていた足軽達にとってこの手持ち楯、『
(てだて)は貧弱だった鎧よりも重要なものであり、これが無いと迂闊に戦場に出られないため、問題や障害に対して有効な手段がないことを示す慣用句である『手立てがい』という言葉の語源になったという説もあるようです。

 

   
  
 

 しかし、足軽の必携装備だったこの手楯も戦場の兵法が大きく様変わりした鎌倉時代中期頃より重要性が薄れ、戦場では省みられなくなっていきました。
 それまで白兵戦を担当していた足軽達がこぞって弓矢を撃つようになり、両手がふさがってしまったこと…――そして、この程度の木製楯では構えたところで雨霰と射掛けられる鏃を防ぐことが出来なかったからです。
( ・(,,ェ)・) 投石くらいなら十分防げたでしょうが、日本の弓矢攻撃はモンゴルの騎馬民族譲りな非常に強いものです。鉄製でもきっと、手持ちの楯じゃ勝負にならなかったでしょうね。

 さらに、戦国時代の到来により鎌倉時代以来の弓矢も更に進化、破壊力に磨きが掛かり…一人前の足軽であれば、立てかけて置いた畳三枚を余裕で貫通するようになります。おまけに、長さ6mを超える足軽槍が戦場の主戦力となり…ついで火縄銃が登場したことにより、楯の存在価値はほぼ
ゼロになってしまいました。
( ・(,,ェ)・) とくに火縄銃の登場は、楯だけでなく西洋の鎧や兜にまで致命傷でした。いくら鍛冶屋が頑張って分厚い鎧をつくっても、至近距離から火縄銃を喰らえば貫通してしまうようになったからです。ファンタジーRPGの主人公達や、『魔界村』のアーサーが着ているようながっちがちの全身鎧が戦場の表舞台より消え去ります。


 そうして、時代が進み…平和な江戸時代や明治維新を迎える頃には、無くては手立てがうてないとまで信頼された『楯』の存在感は完璧に忘れ去られてしまうことになるのです。
( ・(,,ェ)・) さて、今回は短文でお茶を濁しましたが…次回は読み応えのあるものを掲載します。―――いえ、今回の更新に長いコラムが間に合わなくって手立てが無いからこんなの書いたとかそんな決して(ry

 次回更新は10/9〜10/10の予定です。乞う御期待!!

戦国時代の知られざる秘話やためになる格言、知識を得たい人は
筆者ホームページ『赤髭亭』へGo!!

■赤

http://akahigetei.weblike.jp/main.html

"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第四十夜】

JUGEMテーマ:コラム

 


 戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)

 

■九月二十九日のトリビア

 豊臣秀吉の参謀であり、股肱の臣でもある
 蜂須賀正勝。山賊・野武士の頭領を勤め、
 
巨漢という印象があるが、実はそうでもない。




■"難波の太閤殿下"豊臣秀吉の立身出世を陰から
 支えた豪放磊落な山賊大将、具足に見る実像とは?


 さて、突然ですが…――読者の皆様は、御自分の出身地の『殿様』が誰だったか、なんてのは御存知でしょうか?
 戦国時代の『戦国大名』ではなく、徳川幕府が開かれた江戸時代以降、親藩・譜代・外様に分類され日本各地に○○藩××家として領地を得ていた、俗で言う『殿様』というやつです。

 御国柄によっては、江戸幕府による廃藩や転封により途中で殿様が変わっていたりお家断絶になったりと、一概に『殿様と言えば誰』とは言い難いかもしれませんが…赤髭の見た感じ、戦国武将と違って江戸時代の『殿様』というのはよほど地元民に慕われない限り、話題になることは
いように感じられます。

( ・(,,ェ)・) 例えば、淡路島の洲本市では…江戸時代初期の僅かな期間、島を治めていた賤ヶ岳の七本槍・脇坂安治が殿様として慕われており、洲本城でも脇坂安治の旗印・輪違い紋が翻り、城内の石碑でも淡路の殿様としてリスペクトされてました。
 江戸時代の大半、淡路島を治めていたのは蜂須賀家なんですがね…。





 まぁ、戦国時代の様な血で血を洗う闘争の時代ではなく平和呆けするほど天下泰平だった時代の殿様にそうそう人気も出るはずはありませんが、もうひとつの理由は基準の複雑さがあること。

 そもそも、今で言う都道府県のまるまる一つ…旧来で言うところの『一
』を治めていた江戸時代の大名というのは、戦国大名と違って数えるほどしか居ません。

 現在は47都道府県ですが、戦国時代当時に北海道と沖縄はまだ日本国じゃなかったので45。戦国時代はさらに細かく、66ヶ国(隠岐島を”国”とカウントすると67)に分かれていました。

 66も国があるのに、数えるほどしかいないのです。

 『
国持大名八家』と呼ばれる全十八家の大名がそれで、彼らが統治した御当地でない限り、同じ都道府県内であっても『殿様』は複数家あるのが普通ですので、同じ県出身の歴史好きであっても『殿様って誰?』と聞けば、違う返答が返って来ることでしょう。


 ( ・(,,ェ)・) 国持大名十八家、願いましては!!

 
加賀(金沢)前田家、越前(福井)松平家、薩摩(鹿児島)島津家長門(山口)毛利家、陸奥(宮城)伊達家、肥後(熊本)細川家、備前(岡山)池田家、因幡(鳥取)池田家、肥前(佐賀)鍋島家、筑前(福岡)黒田家、安芸(広島)浅野家、出羽(秋田)佐竹家出羽(山形)上杉家、土佐(高知)山内家、出雲(島根)松平家、伊勢(三重)藤堂家、筑後(佐賀県久留米)有馬家、そして阿波(徳島)蜂須賀家です。
(赤字は元西軍・青色は両軍に所属・緑は元東軍。)

 全部並べると、お経みたいですね。







 下手をすると隣町でもう違ってたりする『お殿様』。戦国時代ブームは火がついてから数年を経て、今では一大観光・産業としてすっかり定着しましたが、こちらが流行となり風潮に乗るにはまだまだ時間が掛かりそうです。





 さて、『国持大名十八家』の錚々たる顔ぶれを見てみると…乱世を勝ち抜き、江戸時代まで御家を繋いだ戦国武将の子孫達が数多く名を連ねています。

 黒田官兵衛が波乱万丈の生涯を経て築きあげた筑前黒田家、前田利家の血統である加賀前田家、細川幽斎の子孫・肥後細川家…――太閤秀吉の最初の右腕である蜂須賀正勝の後裔・阿波蜂須賀家などです。


 揃いも揃って外様大名…もとは織田信長や豊臣秀吉に仕えていた人達で、関ヶ原の合戦以降に
あんにゃろめ徳川家康の麾下に就いた者。そして、来年の大河『軍師官兵衛』でも登場し、活躍するであろう武将達です。

 赤髭の住む徳島県の『お殿様』である蜂須賀家は、豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だった頃からの右腕であり、参謀としては黒田官兵衛や竹中半兵衛よりも先輩である蜂須賀
(小六)から連なる国持大名十八家の一角、現在の徳島県を総て治めていた押しも押されぬ大大名。

 徳島県が全国に誇る一大イベント・阿波踊りを推奨し、今も『阿波の殿様・蜂須賀様が、今に残せし阿波踊り』と唄われるほど、地元では愛着を持って讃えられています。
( ・(,,ェ)・) もっとも、阿波踊りで一番観光客を動員するのは徳島のじゃなくって東京・高円寺の阿波踊りだそうですが。あっちの人は阿波踊りを東京名物だと信じて疑わないって本当ですかね(余談。

 蜂須賀正勝が世を去った1586年以降はかなり影が薄くなる蜂須賀家、実はあの伊達政宗すら舌を巻くような世渡りの達人や、徳川家康がその武勇に感嘆して養女の婿に迎えるような麒麟児も輩出しているのですが…それをお話するのは別の機会にして。

 今宵は、この阿波蜂須賀家の立役者・蜂須賀正勝についてのちょっと意外なお話を御紹介しましょう。



■黒田官兵衛も竹中半兵衛もヒヨッコ同然。
 豊臣秀吉から最も信頼された右腕・蜂須賀正勝の意外な実像とは


        
       


 96年大河『秀吉』では過激なデスマッチプロレスで一世を風靡した炎の男・大仁田厚さんが、06年大河『功名が辻』では身長2メートル近い巨漢ながらも高角度で落とす"エベレストジャーマン"を切札に、当時のプロレス業界を席捲した高山善廣さんがキャスティングされた蜂須賀正勝。

 

 おかげで大河Fanからは
蜂須賀小六ってプロレスラー枠だよねだとか呼ばれているそうですが、これというのも『蜂須賀正勝って大柄で頑強な体質、打てば響くような放磊落な性格』というイメージが強いからだと思います。
( ・(,,ェ)・) 来年大河『軍師官兵衛』でも登場間違いなしなのですが、今年は誰がキャスティングされるんでしょう。前に大河出演経験があって、全日本プロレス社長を退いた武藤敬司さんが入れば面白いのですが。ネタバレのネタバレになりますが、TAKAみちのくさんとかもイメージにぴったりなのですが…(苦笑


 この印象は、実を言うと江戸時代からの鉄板イメージ。
 豊臣秀吉が百姓の倅から天下人まで成り上がった経緯をやや大袈裟に、江戸の庶民にもわかりやすい絵物語に仕立てた『絵本太閤記』の頃からのものです。

 豊臣秀吉の人気が赤丸急上昇で沸騰し、その生涯が一般の常識として定着したのはベストセラーになった『絵本太閤記』の挿絵や、江戸時代に流行した戦国武将の武人絵に描かれた蜂須賀正勝が『山賊や夜盗達の頭目、もしくは野武士集団の首領』として…"ぼさぼさの髪に顔いっぱいの髭、見上げるような巨漢"という容貌が一因にあることは、間違いないでしょう。

 この"野蛮で豪快なイメージ"がどれだけ世間に知れ渡っていたかは、明治維新の後に正勝の子孫・蜂須賀
(はちすか-もちあき)が宮中に参内した際、応接室にあった紙巻煙草を記念にと失敬したのを明治天皇に目撃されて

 『
蜂須賀、血は争えんのう。

 だなんて言われてしまった、ということなどから…庶民はおろか天皇陛下でも御存知の一般常識として通用していた話からも明らかなところです。
( ・(,,ェ)・) 蜂須賀正勝の嫡流は江戸時代に途絶えており、秋田佐竹家から養子を、次いで茂韶の父・斉裕が徳川将軍家から養子として入っているため、茂韶は遺伝子学的に言うと徳川家康の子孫です(天下盗人の子孫ならなるほど、なっとく!!)
 茂韶はよほど盗賊の子孫扱いがいやだったのか、当代でも最高の歴史学者だった渡辺世祐に先祖の身の上調査を依頼し、盗賊というわけではないというお墨付きを貰ったそうです。あと、明治天皇も蜂須賀正勝の子孫という笑えない事実があります。



 しかし、実際の蜂須賀正勝…彼が史料に残した実績や身分は、そんな野蛮で下卑な山賊大将とは大きくかけ
れています。

 蜂須賀正勝は『小柄で温和な人柄』という記録があり、野武士や山賊の頭領とされた肩書きも厳密には国人衆
(こくじんしゅう)、はやく言えば『特定の主君に仕えていない、半独立した武装勢力の大』。

 また、正勝が国人領主として本拠としていた蜂須賀郷の周囲は木曽川やその支流が入り組んでいました。
大きな河川は10tトラックや貨物列車が無かった戦国時代当時、物流の重要な拠点でもありました。
 正勝は欲の皮が突っ張った商人や斯波家・織田家などの武人領主と交渉や折衝に望み、時には理と利で詰んだ話術で相手を説き伏せ、時には麾下を引き連れて近隣大名の合戦に参加していました。

 粗暴で単純な山賊大将などとは大違いな、剛柔を使い分けた智謀と話術も駆使する有能な
士だったのです。

 荒事に望んでは多くの部下に慕われた親分肌と豪胆な気質を十二分に生かして武勲を挙げ、繊細な交渉術が必要とあれば単身敵方の重要人物方に乗り込み、難しい折衝を手堅く抑えてしまう優秀振りは、後に尾張国
(現愛知県西部)を統一した織田信長にも聞こえ、織田家に所属。


 次いで"木下藤吉郎"と呼ばれていた秀吉に協力して立身出世を影に日向に支え、秀吉の墨俣城築城や美濃国の武将・豪族達の誘降に尽力します。





 秀吉が命を賭けた金ヶ崎の退き口も同伴し、死線を越えて武勲でも貢献し…1573年(天正元年)、秀吉が遂に一国一城、北近江
(現滋賀県北東部)長浜城の城主に就任すると、家臣達では最高額となる3200石の俸禄で家臣筆頭に名を連ねました。
 このときの竹中半兵衛がの俸禄が1050石、秀吉の軍師と名高い半兵衛の三倍以上も報酬を約束されていることは、蜂須賀小六がどれだけ秀吉に信頼されているかを示すものです。


 秀吉が播磨国
(現兵庫県南部)姫路城に入り、織田軍団山陽道司令官に着任した後も順調に働きを重ね…本能寺の変の前年、1581年(天正九年)には信長より秀吉部下としては異例の播磨龍野万三千石を与えられ、戦国大名なみの地位まで登り詰めました。

 まだ秀吉麾下の一部将に過ぎなかった黒田官兵衛からすれば、余裕で雲の上なポジションです。

( ・(,,ェ)・) ぶっちゃけた話、この頃までの蜂須賀正勝の身分は『寄騎』(よりき)、つまりは本社からの出向社員であり信長直属の部下だったという説もありますが。

 戦国の覇者・織田信長が本能寺の変で紅蓮の炎に消えた後もその辣腕振りは衰えを知らず、すぐさま引き返して明智光秀を討つという秀吉のプラン『中国大返しの実現に全力を注ぎ…黒田官兵衛と共に備中高松城の開城交渉、毛利方の策士・小早川隆景との戦後交渉も短時間で秀吉有利に収めます。



 そして赤髭的に勲一等だと思うのは、まだ信長の死を受容できず、今後のビジョンに迷っている秀吉の背中を大きく押したこの一言。

      

 長年、秀吉と一緒に苦楽を共にした蜂須賀正勝でなければ吐けない台
です。


 この後、織田信長の後継者を決める清洲会議で秀吉有利に展開する事前交渉でも蜂須賀正勝は最大の決め手となった丹羽長秀の説得に成功し、長宗我部元親を討った四国征伐では阿波国の要衝・木津城
(現徳島県鳴門市)を攻略し、戦後は遂に阿波一国の太守に昇進。

 その栄誉の席は嫡男の蜂須賀家政に譲り、生涯の最後まで秀吉の右腕を勤め続けた正勝は1586年
(天正十四年)5月22日、大坂城の屋敷で世を去りました。


 その蜂須賀正勝が眠る徳島市の徳島城博物館では現在、『殿様の時代 -徳島藩主蜂須賀家の政治と文化』と題して、10月14日まで企画展が開催されています。

( ・(,,ェ)・) 勿論、投稿当時のお話です。今はやってませんよ?
 そこには、豊臣秀吉が百姓の倅から天下人、関白太政大臣まで上り詰める立身出世を支えたある男が身に着けていたという具足が展示されていますが…。


 研究者の推測によれば、その鎧を着て戦場を駆け抜けていった武将の身長は推定、
150cmほどだったのではないかということです―――。


( ・(,,ェ)・) 最後の余談になりますが、現在の蜂須賀家当主は第十七代当主・蜂須賀正子さん(72歳)。
  現在、正子さんはお子さんも養子さんもないそうで、このままだと蜂須賀家は断絶ということになるそうです。
他にも、大河『龍馬伝』で出演した俳優・声優の蜂須賀智隆さんも、系図不明ながら蜂須賀正勝の子孫なのだとか。


 次回更新は10/5〜10/6の予定です。乞う御期待!!


戦国時代の知られざる秘話やためになる格言、知識を得たい人は
筆者ホームページ『赤髭亭』へGo!!


■赤

http://akahigetei.weblike.jp/main.html


"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第三十九夜】


JUGEMテーマ:コラム


 


 戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■八月二十二日のトリビア

 来年の大河『軍師官兵衛』でも活躍が期待される
 『難波の太閤殿下』豊臣秀吉。受けた恩義は忘れ
 
ない人だが、恨みはもっと忘れない人だった。



■戦国の覇者・織田信長の衣鉢を継いだ猿面冠者の
 太閤殿下、豊臣秀吉が見せたもう一つの顔


 『竹中直人がNHK大河でまた秀吉役、「見飽きた」の声も』
というきのキャスティング情報、依然として当ブログの検索情報でも不動の一位を獲得していることからもかなりの潜在数を誇るであろう秀吉Fanの皆様も既にご存知の方は多いかとは思います。

 96年大河『秀吉』では個性的かつ躍動的な豊臣秀吉像を演じきった竹中さんの再登板、既に発表されている江口洋介さんの織田信長と並んだその顔はどういうものなのか…今から赤髭の期待感は急
昇しています。

 上記リンクでは見飽きただの安全牌だのと酷評されていますが、ここ数年は役満どころか振込みの連続、満貫の手ごたえすら掴めていない今のNHKが危険牌を振るわけもありませんし、"見飽きた"と論じる記者最大の認識不足は
『竹中さんはまだ、晩年の偏執と狂気に犯された豊臣秀吉の暗黒面を演じたことがない』ということ。


 もう十七年も前の話の事、記憶に無いorまだ生まれていなかったという歴史Fanの皆様に補足しておけば、96年大河『秀吉』は、豊臣秀吉が"天下統一を達成、めでたしめでたし…"という、人生最大の幸運を噛み締めながらも、一人さびしく大坂城内を歩く後姿…その後の人生の悲哀や渾沌をほのめかすような流れで締め。という終わり方をしていました。

 織田信長の後継者として天下統一事業を進めていくうち、明朗で闊達だった精神が蝕まれはじめ、孤高の独裁者となっていく秀吉の横顔。
 やっとのことで誕生した男児・鶴松の死に絶望し、自分を太陽の子と信じて二度も敢行した狂気の朝鮮出兵。一度は後継者に指名した甥の豊臣秀次を自害へ追いやり、挙句にその愛妾や子供たちまでをも酸鼻を極めるような惨たらしい方法で虐殺した…などなど、言わば『豊臣秀吉の暗黒面』。

 天衣無縫で才気煥発、器量も抜群だった"明るい"豊臣秀吉を演じた竹中さんが、天下人であるがゆえ心に宿した独裁者の狂気に病み、そして長年信頼していたはずの黒田官兵衛まで遠ざけていった猜疑心に囚われる様はどんなものなのか。
 大河『江』で好演した岸谷さんの秀吉とどんな違いを見せてくれるかが、視聴するにあたって楽しみなポイントになるのは間違いありません。
( ・(,,ェ)・) こんな面白い要素を見逃して何が"見飽きた"か。ふざけるのはゴシップ記事だけにしとけと小一時間問い詰めたい気分です、ええもう。

■太閤殿下の、過去を振り返るのを忘れない人柄とは

 さて、そんな豊臣秀吉の数多いエピソードから今夜御紹介するのは『過去の恩義は忘れない』というその温情的な一面…―――なのですが、戦国歴史Fanの諸兄姉が集う当ブログでこれについて、わざわざ詳しく御紹介するには及ばないでしょう。


 
    

 
故郷の尾張中村を飛び出して東海道を放浪していたとき、初めて秀吉の器量を見抜き武家勤めのイロハを教え、寵愛した遠江国(元静岡県西部)の戦国武将・松下加兵衛が戦乱の末に没落したのを太閤になってから大坂に招き、過去に受けた恩義に報いるため遠江久野・一万六千石の大名に帰り咲かせた話。

 『闘わずして勝つ兵法・謀略戦の重要さ、その基盤には入念な情報収集が不可欠である』という認識を植え付け、そのノウハウを野武士暮らしで叩き込み、戦国武将・豊臣秀吉の素養を育んだ名参謀・蜂須賀小六を四国征伐後に阿波国
(現徳島県)二十五万石の太守に据え、長年にわたって苦楽を共にしてくれた働きを激賞した話。


    


 
"秀吉"という名を授けたとされる南近江国(現滋賀県南部)の戦国大名・六角義秀、その遠縁にあたる六角義治が浪人同様の惨めな暮らしだと聞けば、御伽衆(おとぎしゅう、無学だった秀吉に知恵を授ける参謀・兼話し相手)として召抱え、後に愛息・豊臣秀頼の弓術師範に据えた話。

 などなど…元から高貴な身分だった織田信長や武田信玄とは違い、身分が卑賤で貧乏な放浪時代を経験している秀吉には、太閤に成り上がって以降に昔の恩人を救済したという話が枚挙に暇がありません。

■けど、恩義に必ず報いるという性格…逆に言えば?
 しかし、良く良く考えてもみれば『昔の恩は忘れない』という事は…裏を返せば『昔の恨みもしっかり覚えてる』ということ。
 いくら豊臣秀吉が器量に恵まれた戦国武将の申し子であっても、誰彼なしに好かれたわけでもないでしょうし…何よりその矮小な背丈と貧弱な体つき、猿と思えば人だったと揶揄された醜悪な容貌と小ざかしい性格は、随分と嫌われもしたようです。

 例えば、尾張国中村を飛び出して松下加兵衛に出会うまでの放浪時代。
 路銀として母親や姉から貰った永楽銭で縫い針を買い、それを行商しながら東海道を下った秀吉でしたが…どうやらその途中、三河国
(現愛知県東部)あたりで完全にお金が尽きてしまった模様。

 仕方なく、田んぼの畦に入り込んで泥鰌を取って売ろうとしたところ、この田んぼの所有者であった地侍・河合善右衛門に見つかってしまい、ひと悶着。

 色々と言い訳はしたものの、結局はこっぴどく殴り倒されて折檻を受けたそうなのですが…――この泥鰌泥棒が後年、まさかの一発逆転。あれよあれよの間に戦国武将の檜舞台へ躍り出て、三河国の戦国大名だった徳川家康すらも従わせる天下人へ大出世したからサァ大変。

 太閤殿下、家康の配下が大坂城へ来るたびに聞いていたそうです。『三河国に河合という武士があったはずだが、今はどうしている?』と。

 しかし、秀吉の恩人達が没落していたように河合善右衛門も戦乱に倒れて世を去っており、その子孫達も徳川家康は勿論、その家臣達すら行方が知れない状態になっていたらしく…誰に聞いても返事は『いえ、その者は
くなっていますし、親類縁者もどこにいるやら…』というもの。

残念だ、その者が今も健在であれば昔の話をしてやるのに』と、豊臣秀吉が悔しがったという話が『武功雑記』に収められています。
 ちなみに秀吉、このことを聞いていない家康の家臣が来ると必ず、執拗に問い合わせしていたようですから…生きていたらどうなっていたのやら。
(;-(,,ェ)-) いやぁ、まぁ…鼻そいで耳そいで、六条河原で晒し首なのはまぁ間違いなかったでしょうね、晩年の太閤殿下は鬼畜生ですし。

■尾張中村よ、私は帰って来た!! 逆襲のサル。
 また、太閤殿下が天下統一事業で最後の決戦とした1590年の小田原北条家討伐の際には、久方振りに故郷の尾張国を通過したとき、不意に昔のことを思い出したらしく…豊臣家五大老だった小早川隆景に怒り心頭な御様子で咆哮。

昔、尾張中村で暮らしていたころ"王"なるガキ大将からいっつも酷い目にあわされてた!! 天下人たる余を愚弄する振る舞い、許しがたい!!
 隆景、"仁王"を探し出して我が前に引っ立てて参れ!!!

(;-(,,ェ)-) いや、太閤殿下…それってたぶん、四十年以上前の恨みですよね?しかも子供時代の。

 こんな無茶振り甚だしい命令でも、律儀に果たしてしまうのが小早川隆景。さっそく尾張国中村に家臣を派遣して問い合わせをさせたところ…――先述の河合さんとは違って不運なことに、"
王"は健在で今も尾張中村で農民として暮らしていることがわかってしまいました。

 しかし、昔は傍若無人なガキ大将だった仁王も今となっては総髪が白く染まった好々爺。孫も子もいる御老人になっていました。
 事の次第を聞くや顔面蒼白、隆景の前で涙を流して土下座の上での命乞いを始めます。まさか、昔虐めてた近所の猿顔した生意気盛りが戦国乱世でも一番の勝ち組になってて、四十年越しの復讐を挑んできたとか予想外も良いところです。

 家族も揃って小早川隆景の前に平伏して死罪だけは御勘弁をと涙声の大合唱。

 

 毛利元就より『家族兄弟は一致団結して困難にあたるべし』と三本の矢の薫陶を受けている小早川隆景、さすがにこれは気の毒だと思ったのでしょうか…――太閤殿下には『もう仁王とその子供達は死んでしまって久しく、一家は離散していました』と報告したそうです。

 優秀な後輩や部下が居るという方は、扱いには重々御注意下さい…と、そんなお話でした。

( ・(,,ェ)・) 他にも尾張中村には秀吉を虐めた世帯があったらしく、太閤出生の地として年貢が免除されていた中村にあってその家族がある集落だけは年貢免除を認めないという沙汰を出したところ、その集落より『その者は死にました』との報告。

 『じゃあそいつの子供は居るか!!』と秀吉が言い返したところ、『子供は死んで孫の世代になってます!!カンベンしてやってください!!!』と集落より返事があり、『孫の世代じゃ、しかたないな』とようやく年貢免除を認めてあげた、なんて話が残っています。執念足り過ぎです、太閤殿下。

 次回更新は8/26〜8/27の予定です。乞う御期待!!

戦国時代の知られざる秘話やためになる格言、知識を得たい人は
筆者ホームページ『赤髭亭』へGo!!

■赤

http://akahigetei.weblike.jp/main.html

"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第三十八夜】

JUGEMテーマ:コラム


 


 戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■八月十五日のトリビア

 戦国大名がその座を巡って闘争を続けた
 『天下人』。全国制覇が条件と思われがちだが
       
当時の感覚はずいぶんと小さいものだった。



■戦国の覇者たらん『天下』の統一、目指した武将は
 数多いが…その勝利条件とは?


 さて、赤髭が戦国歴史読み物を書く際、織田信長を扱う場合に必ず行うのが
戦国のという称号戴冠。

 1467年
(応仁元年)に勃発した戦国時代の幕開け、『応仁の乱』から数えて百年の1568年(永禄十一年)、他の戦国武将に先立って流浪の将軍・足利義昭を奉じ上洛に成功した乱世の風雲児。

 『天下布武』を掲げ敵対者を討ち滅ぼす『天下布武』を標榜した新たな時代の旗手。その偉大な業績や英雄たる素質、戦国武将の代名詞たる活躍と功績を歴史に残したことへ敬意を表して
厨二病っぽくそう呼んでいるわけですが…――これに関しては、異論のある方も多いのではないでしょうか。

第一、覇者といっても織田信長は『全国制』を達成していない。


 北は奥羽、南は九州まで日本全土に織田木瓜の家紋、永楽通宝の軍旗を掲げることなく本能寺の業火で灰燼に帰した第六天魔王に、覇者という称号は確かに行き過ぎているかも知れませんが…。


 実は、織田信長はある意味では間違いなく
者なのです。しかも、天下を統一したという紛れもない事実を誇る、鉄板の天下人様です。
( ・(,,ェ)・) いま、赤髭は何を血迷ったんだと思った方、正直に手を挙げて下さい。


 何のひっかけ問題かとお思いの読者様もいらっしゃるかとは思いますが、実を言えば…
今と戦国時代では『天下』という言葉の意味合いが随分違っていたのが原因。


 そもそも、日本全土は国と数えて六十カ国以上。長い日本史を読み解いていっても、武力で隅から隅まで制覇出来た権力者なんて信長以降、豊臣秀吉と徳川家康、その後継者達くらいのものなのです。誰も就いたことがない地位が天下人というのも、妙な話ですよね?


■初めて武家政権を築いた源氏の棟梁、源頼朝はどうよ。
 はい、確かに源頼朝は前年大河の主人公だった平清盛と平家一門を武力で滅亡させ、後白河院や藤原家に替わって日本統治を始めた最初の武家政権、その最高責任者でしたが―――…実を言えば『天下人』かと聞かれれば少し違うことになります。源頼朝は最後の最後まで、京都に君臨する朝廷勢力を完全掌握することが出来なかったからです。


    

 しかも、家来の領土ではない頼朝直轄の支配地となると…本拠地の鎌倉を中心に関東地方にあるばかり、近畿に関しては完全に手付かずです。鎌倉幕府が朝廷の上に立ち、本当の天下人になるには源氏断絶の後を受けて執権政治を始めた北条義時、その子孫達の登場を待たなくてはいけませんでした。

■それじゃあ次に幕府を開いた、足利尊氏なら天下人なのか?
 足利尊氏が室町幕府を開いたのは1338年。鎌倉幕府滅亡後に朝廷貴族至上主義で始まった建武の新政府、後醍醐天皇に弓ひく形でのことでした。

 しかし、だからと言って足利尊氏が頼朝や秀吉、家康のような強権を握る武家の頭領だったのかと言えば、答えはNo。

 彼は公家や皇族ばかり得をする時代錯誤な建武政府に反逆し、自分達に都合の良い政府を作ろうと考えた武士達のシンボル、言わばただの御神輿に等しいような人物です。その性格は喜怒哀楽の波が激しく、自分の意見は強く言わない替わりに誰かを非難することもない、それでいておぼっちゃん気質の気前が良いあんちゃん。


    
 
 
 
 
  

 いみじくも、現代のキングメーカーと揶揄された小沢一郎氏言うところの『御輿は軽くてパーが良い』を地でいくような、連立政権の長でしかありませんでした。その直接支配地や軍事力たるは鎌倉幕府の源氏以下で、気に入らなければ部下達は平気で尊氏に反逆するありさま。


    
  

 実際、尊氏は幕府を開いた後もたびたび旧建武新政府に本拠地である京都を脅かされ、時には遠征中の留守に京都を奪われることすらありました。自分の右腕と左腕が喧嘩を始めるとその仲裁もまともに出来ず、両方とも騙しうち同然に処分するのが精一杯。


 室町幕府の足利政権が『天下人』にふさわしい権威と主導力を得るのは、尊氏の孫にあたる足利義満の代になってからのことです。

 

     

   

 
■そして室町幕府は戦国時代を招来する大内輪揉めを開始、世は闘争の巷に。じゃあ天下人の条件って何なのよ。
 ここでやっと話が戻るわけですが、御覧のように『戦国時代当時』では、過去に全国を武力制覇出来たような強い権力者は誰も輩出されていなかったわけで…――豊臣秀吉や徳川家康といった覇者達をまだ知らない当時の人たちにとって、『天下』とはずいぶんと狭い話になっていたのです。

 ぶっちゃけ、戦国乱世での『天下』とは、帝のおわす京都とその周辺、せいぜい近畿地方西部のこと。今で言う京都府・奈良県・大阪府に兵庫県東部あたりのことだったのです。この『天下』というものへの認識の狭さは当時のキリスト教宣教師たちが、『天下』のことを今の大阪府周辺程度に把握し、記録に残していたことからも明らかなこと。


 また、信長以前の近畿で君臨した阿波徳島の戦国武将・三好
が『天下』…京都府・奈良県・大阪府に兵庫県東部あたりをキッチリ押さえていたこと、信長を横死させて十一日間の戦国覇者だった明智光秀が世間から『三日天下』だったと揶揄されたのも、ふたりが当時でいう『天下』を掌中に収めた、立派な天下人だったことを示すものです。


 そういう意味では、全国制覇を果たせなかった織田信長も立派に『天下人』、天下
布武を達成した戦国の覇者なんです。
( ・(,,ェ)・) だから、みんなも信長公を『覇者』と呼んであげてください。 徳川家康ばっかり天下人って言われるのは癪なんですぶっちゃけ




次回更新は、8/20〜8/22の予定です。乞うご期待!!


戦国時代の知られざる秘話やためになる格言、知識を得たい人は
筆者ホームページ『赤髭亭』へGo!!

■赤

http://akahigetei.weblike.jp/main.html

"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第三十七夜】

JUGEMテーマ:コラム
 


 戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■八月一日のトリビア

 北九州に覇を唱えた戦国大名・大友家を
 支えた驍将・立花道雪。戦場で病没したが
 埋葬問題で家臣達を混乱させている。
 



■大友宗麟の懐刀にして北九州最強の"神"、その
 勝利へのあくなき願望が残した最後の遺言


 1585年
(天正十三年)六月、筑後国(現佐賀県南東部)柳川城を攻める大友家の総大将・立花は薩摩島津家の前に衰亡の一途を辿る大友家を支えるべく、齢七十過ぎになる老骨に鞭打っての出陣。

 若い時分に己めがけて落ちてきた稲妻を切ったために半身不随ながらも矍鑠としていた体に鎧兜をまとい、家臣達の担ぐ輿に乗って采配を振りかざしての敢闘振りはまさに"雷神の化身"。
 北九州でも最強の戦国大名だった大友宗麟にとって、まさに道雪の存在は頼みの綱。


 勇猛果敢な兵法者振りと大友家の基盤をになう器量、部下から集める信頼振りは高く天下に鳴り響き、ついた渾名は『鬼道雪』。
 あの"甲斐の虎"武田信玄に『一度会ってみたい』と言わしめたほどの名将だった道雪でしたが、さすがに最盛期を離れ見る影もないほど衰退した大友家を我が身一人では支えきれません。


 大友家に代わって九州の覇者たる勢いを示していた島津家の猛攻を筑後国で食い止めているのは流石と言うべきでしたが、寄る年波の老耄と過酷な戦場生活には勝てず、とうとう死の床に着いてしまいます。


 共に斜陽の大友家を支える朋友・高橋紹運が陣地を構える高良山の高良大社へ平癒祈願を依頼し、懸命に看病を続けますが…無常なる哉、人の命運。

 『に降り積もったは、溶け消えるまで居場所を変える事はない。武士も一度主君に忠誠を誓ったのであれば、死ぬまで節を曲げずに戦い抜くことこそ本懐』とその法号通りに三十七度の戦場を駆け抜け続けた立花道雪は、遂にその命運を使い果たして柳川城を前に最期を迎えました。享年七十三歳。


 これで大友家の筑後国戦線は総大将を失い撤退は必至となったのですが…―――戦場で武勲を立てることこそ忠義の証と信じていた老将の言は、大友家に所属する武将達に深い感銘を与える内容でした。


『我が死んだならば、屍に鎧具足を着けて高良山は好己の丘、柳川城に向けて埋葬せよ。この遺言に背けば、我が魂魄は必ず祟りをなすであろう』


 
かつて歳若い部下が軍法を破って陣中より実家に戻り、母親の顔を見たというだけで極刑に処した戦鬼の徒に相応しい、勝利への宿願が滲み出る遺言。
 しかも、遺された家臣達がこの言いつけを破らないように念を押す用意周到振り。道雪老人、死して大友家の守護神となり怨敵に祟る覚悟です。


 しかし、元来から家臣達を懇ろに薫陶し、命を賭す信頼を得てきた道雪のこと…この遺言を巡って大きな混乱が起きました。


 次の立花家総領である立花宗茂はこの時、本拠地である筑前国立花山城にありましたが、養父の遺言がいくら鬼気迫る執念を示しても納得が出来ません。

 『幾ら故人の遺言であっても、どうして大友家に忠誠を尽くした道雪の遺骸をただ一人捨て置いて引き退けようか。
立花に人は居ないと世情に謗られることになろう。立花山まで亡骸を奉戴せよ』

 と言及すれば、それでは遺命に背くことになると喧々囂々。


 ならばと道雪に長年付き添った家老職の由布雪下(ゆふ-せっか)が

それでは大友家の勝利を信じて冥途へ逝った道雪様の遺言に背くことになる。なれば拙者はここで腹かっさばいて殉死し、事の次第を泉下にお伝えし、御供つかまつる

 と六十歳近い皺腹を掻き切らんと片袖をうで捲くって公言したら逆効果、『ならば我らも後を追う!!』と大半の家臣達が殉死を決め込み具足を脱ぎだす始末。
 立花道雪がなまじ"生ける軍神"の如くに信奉されたのが逆にあだとなる格好になってしまいました。


 こうなると道雪配下で誰が一等の忠義者なのかと陣中は上に下にの大騒ぎになってしまいますが…――壮絶な論議を聞いていた原尻鎮清(はらじり-しげきよ)が一喝。


『おのおのがたは名誉を尊び腹を召されると仰せだが、左様なことで本当に道雪翁がわれようか、立花山の宗茂様がお喜びになられようか!!

 腹を召すなら、道雪様の衣鉢を継ぐ宗茂公のためにすべきである!!!』


 この言葉に目が覚めた由布雪下ほか一同、もっともであると首をたて振って納得、反省。

 家老職でありその法号に"雪"の一文字を賜った雪下が『道雪様の亡骸は拙者が全ての責を負いて立花山へ御送り致す。もし祟りがあるならば、我が由布一族が罰を受けて御怒りを鎮める所存』と決定稿を出し、ようやく大友軍は柳川城の包囲を解いて撤退を開始しました。


 大友家の守護神たる立花道雪の死を知った島津軍の猛追撃を迎撃したのは、長年の朋友であった高橋紹運。


 無事に立花山城へ帰還した道雪は山麓の梅岳寺(現福岡県新宮市)に埋葬されることになりました。


 なお、柳川城を陥落させるという道雪の執念は後年、関ヶ原合戦での改易から奇跡の大名返り咲きを果たした後継者・立花宗茂が柳川城を与えられたことにより達成。鬼道雪の宿願はみごと、その遺訓を受け継いだ者たちにより結実しましたとさ。
 

 

 

戦国時代の知られざる秘話やためになる格言、知識を得たい人は
筆者ホームページ『赤髭亭』へGo!!

■赤

http://akahigetei.weblike.jp/main.html

"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第三十六夜】

JUGEMテーマ:コラム
 


 戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■五月五日のトリビア

 戦国の覇者を灰燼に帰させた男・明智光秀。
 鉄砲の名手として知られるが、実は
 
      けっこう度の進んだ眼だったらしい。 



■信長を横死させた以後の展望が読めなくて当然?
 デキる男の意外な
点。

 1563年
(永禄六年)。後に織田信長の家臣として名を馳せ、そして織田信長を謀叛で葬ることになる一代の梟雄・明智は、越前国(現福井県東部)を治める戦国大名だった朝倉に鉄炮の腕前を買われ、百人の鉄炮足軽を部下にもつ武将として召抱えられることになりました。

 1556年
(弘治二年)、仕えていた主君・斉藤道三が長良川の合戦で討死し故郷の美濃国(現岐阜県南部)の明智を追われて苦節七年。
 糟糠の妻・煕子(ひろこ)ら家族と共に各地をさまよい、時には厄介者扱いされながら寺の境内に寝泊りすることもあった…赤貧にあえいだ三十六歳の光秀にとって、初となる仕官です。


 主君となった義景に火縄銃の腕前を披露するよう命じられた光秀、ここぞとばかりに鍛錬していた鉄炮の連続狙撃を実行。

 三尺(約
30cm)四方の板を、二十五間(約45m)先に設置し、火縄銃を構えて狙い撃つこと発。的の中心を射た急所射撃が68発、狙いは逸れたものの的を撃ち抜くこと32発、つまりはパーフェクトを達成。五代百年続いた筋金入りの戦国大名・朝倉家の武将達に、みごと度肝を抜かせました。(明智軍記)



 ――…と、まぁ。明智光秀といえば戦国史上最大の謀叛『本能寺の変の首謀者であり、歴史の教科書に名前が必ず載る戦国武将の一人として有名な人物ですが、その彼が乱世を行き抜くために磨き上げた殺人芸こそが、当時最先端の技術だった『火縄銃』でした。
( ・(,,ェ)・) 『ようこそ殺し間へ』という台詞と、歌舞伎役者の隈取模様顔で火縄銃を連射する明智光秀の姿は、漫画『センゴク』初期でも特に印象的でしたね。

 後に朝倉義景のもとに寄寓することになる後の室町幕府十五代将軍・足利義昭に近侍し、義昭上洛の御膳立てをするため織田信長と交渉したことが縁となり織田家にも仕官。以降はその文字通りに百発百中の鉄炮術を、信長の天下布武がために活かすこととなるのですが…。




 こんなエピソードを持ちながら、実は明智光秀には 
眼 の疑いがあったりします。


 歴史上の絵画や肖像画からその人の健康状態を推察した篠田達明氏の推察なのですが、検証してみましょうか。



 最初は彼の『顔』から。有名な明智光秀の肖像画を見る限かぎり、彼はかなりの細目。

 最近の漫画キャラに勝るとも劣らないキラキラ目で書かれた宇喜多秀家や池田輝政と比べても一目瞭然で、これは普段から近視がちで遠くが霞んで見えるため、光秀が常に瞼を細めた視線で周囲を見ていたことが推察できます。

 『そんな目の悪い人間に、火縄銃百
百中なんて出来るのか?』というツッコミも来そうですが、明智光秀本人が火縄銃構えて狙撃を披露した、だなんて後にも先にも朝倉家仕官のときだけで、身分が上がっていくにつれ兵法や知識、教養に勤しみ書籍をひもとき、視力が落ちていった可能性だってあるんです。


 視力低下を裏付ける論拠のほかには、明智光秀が織田信長の家臣として忙しくなりはじめたのが四十歳半ばからということ…そして、光秀の働きに陰りが出始めたのは年齢が五十の坂に掛かりはじめた1570年代後半からだということが上げられます。

 明智光秀はいわゆる『元亀騒乱』…織田信長の上洛した1568年を皮切りに、朝倉義景や浅井長政、三好三人衆や浄土真宗本願寺、武田信玄に松永久秀といった名前を連ねるだけでも頭が痛くなってくる連中と畿内の覇権を掛けて争った1570年代前半〜中盤にかけて大活躍した武将。




■比叡山延暦寺焼き討ちでは率先して部隊を動員し一番の手柄を挙げ、織田政権にとって最重地である琵琶湖西岸の要衝・近江坂本城の城主に。

■1575年
(天正三年)、畿内の動乱が室町幕府滅亡で一段落すると、今度は近畿諸国で最も攻略が航すると思われた峻険な山岳地帯・丹波国(現京都府北西部)の攻略を命じられ、丹波亀山城に転勤。

■1576年
(天正四年)〜1577年(天正五年)、石山本願寺・松永久秀・荒木村重ら信長叛逆軍と連戦。

■1580年
(天正八年)、それまで織田家の近畿地方司令官だった佐久間信盛が織田信長より叱責の上、家中追放となると…今度は光秀が『近畿管領軍』として、最責任者となりました。



 若い頃に苦労に苦労を重ね、栄養状態も満足ではない状況だったため体も丈夫ではなかっただろう彼が、五十三歳の老境にさしかかり…激務の末に一番酷使したであろう、視力を悪くするのも頷ける話です。


 しかも、北陸司令官の柴田勝家や中国司令官の羽柴秀吉と違い、彼は近畿在住なものですから…あのカンシャク持ちの織田信長から
れて息をぬくこともできず、常に気を配らなければいけません。
( ・(,,ェ)・) 私が明智光秀の立場だったら、間違いなく重責とストレスで寿命がマッハに縮みますね。ある意味織田家は戦国史上最悪のブラック企業ですし…。



 この頃から、光秀が織田信長に連続して怒られるようになるのも『視力
下』による判断ミスが考えられます。



 まず、"ナントカと秋の空"に匹敵するスピードでコロコロ変わる織田信長の顔色が、読めなくなる。


 宴会好きで他人に大酒を飲ませるのが趣味の信長に対し、宴会の席で渋い顔して酒を断ったりするのは信長の顔色や、それに戦々恐々とする同僚達の表情が読めている人間の選択肢ではありませんし…武田家滅亡後に『我らも骨を折った甲斐があった!』などと得意顔で信長の前で口を滑らせてしまったのも、光秀らしくありません。

 次の瞬間に信長から袋きにされる様な真似を、あの苦労人である光秀が軽々しくするだなんて…周囲が良く見えてないでもないかぎり、ちょっとつじつまが合わないんですよね。


 また、あざやかだった戦術戦略にもキレがなくなり…ほかを圧倒していた武勲もかげりが出てきます。

 柴田勝家・羽柴秀吉ら他の軍団長が一国ないし二国・三国と切り取っていくなか、光秀は五年も掛かって丹波国を攻略に至りました。しかも、敵将の助命を認めるいわば『講和条約締結』です。

 これは丹波国の地形が複雑で難攻不落なのを差し引いたとしても、鈍足といわざるを得ません。これは、視力低下に伴い光秀が聡明機敏だった戦略眼が曇るようになったせいとも取れます。信長は相当いらだっていたのか、講和条約を結んで安土城を訪れた波多野秀治・秀尚兄弟を問答無用で処刑してしまいました。



 ダメを押すのが、明智光秀が本能寺の変後に元同僚・細川幽斎・忠興父子に送った
状。

 幽斎父子は光秀が足利義昭のもと幕臣をしていた頃から懇意の関係。
 とくに忠興は光秀にとっても娘婿であったため、謀叛の後は自分についてきてくれるものとばかり考えて居たようですが…舅を思う以上に信長のことを敬慕していた婿殿は激憤し、妻である光秀の娘・ガラシャを幽閉。その父である幽斎は信長への哀悼を示すため剃髪してしまいました。


細川幽斎殿が、信長の死を悼んで髪を剃られたと聞き最初は立腹もしましたが、よく考えたら当たり前のことでした。けれど、もう今後は私に味方して大きな領土を手に入れることを考えた方が良いと思います。

私がこのたび謀叛したのは、別に他念があってのことではありません。すべては娘の婿である忠興殿のためです。本当です。

■たぶん五十日、いや百日あれば京都だけでなく近隣諸国も平定できると思いますので、そうなったら私は引退してあとの天下は細川忠興殿、明智十五郎
(光秀長男・明智光慶)に譲ります。


 もう、読んでて痛々しいほどの狼狽と焦燥が伝わる文面で…本能寺の変を起こしたのは、可愛い娘婿のためだ。と説得しているのが判りますが…


 この手紙から読み取れるのは、もう引
退をするとほのめかしている点…そしてこの手紙がヤケに丁寧に書かれている点。

 創作物では常に若々しい姿で描かれる光秀ですが、この時すでに五十五歳
 信長の愛唱だった『敦盛』の言うところ、人間五十年を五年も過ぎています。細川幽斎・忠興を味方に引き入れるための方便とも取れますが、目の上のたんこぶが取れて人生これからというときに弱気な発言、既に視力が限界に来ていて引退を考えたというならおかしくはありません。

 また、この手紙は今後の趨勢を占う大事な外交戦略ですので、おそらく光秀本人が書いたものだとされていますが…ひどく丁寧な達筆に書かれています。
 
 これは、光秀が老眼に差し掛かる年齢にあっても近くが良く見えたこと…もともと近眼だったから、老眼が入ってもあまり不便を感じず、手紙を書く距離ならば綺麗に見えていたということを裏打ちするものとも言えます。

 老眼鏡などという便利なものが普及するのは江戸時代に入ってのこと、しかもヨーロッパですらまだ珍しい代物でしたから…いくら光秀が近畿管領軍大将であってもおいそれ手に入るものではありません。


 銀行や郵便局の受付とかで事務のおじさんが額に引っ掛けている遠近両用眼鏡。あれがあれば、明智光秀の生涯と戦国の歴史は大きく変わっていたのかも知れませんね…。


戦国時代の知られざる秘話やためになる格言、知識を得たい人は
筆者ホームページ『赤髭亭』へGo!!

■赤

http://akahigetei.weblike.jp/main.html



ちなみに眼鏡が日本へ伝来したのは、実を言うと戦国時代。
1550年(天文十九年)に周防国山口の守護大名・大内義隆へフランシスコ=ザビエルが献上したものが最初だとか。

 現存しているものでは室町幕府十二代将軍・足利義晴の眼鏡が有名で、また日光東照宮には徳川家康がメキシコの使者から献上された老眼用の鼻眼鏡が残されています。

( ・(,,ェ)・) タヌキが眼鏡かけたらよけいにタヌキになるだろ…。

"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第三十五夜】

JUGEMテーマ:コラム
  



 戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■五月一日のトリビア

 『石田三成に過ぎたる者』、関ヶ原西軍の軍師
 島左近。実は武田信玄の部下だった過去が
 
     あり、逃げる家康のきっ面を見たことがある。  



■誰が呼んだか""左近、その綽名に負けない万夫不倒の武勇譚。


 『
七十余人の者ども、えいえい声を上げて突き掛かり、手の下に追い崩して残りなくち取られんとの手立てなりき』。
 (;・(,,ェ)・) 七十人ばかりの敵軍が『えい、えい!』と声を上げて突っ込んできた。味方はことごとく追い崩され、残らず討ち取られてしまった。



 関ヶ原合戦も今は昔となってしまった、江戸時代。

 戦国時代も遠くになりにけり、その最終決戦で命を張って戦った筑前黒田家の勇敢な武人達も、みな歳をとり…今となっては天下泰平となった福岡博多の繁栄を眺めながら、猛々しい乱世の思い出にひたるばかりのご隠居様に。

 あの徳川家康にも武勲を褒められた黒田家ならば、年寄り武士の昔語り…花が咲くのはやはり『関ヶ原』のこと。しかし、そんな武勇伝も『ある人物』のことに話が掛かると、その恐怖を脳裏に刻んだ古つわもの達は額に汗を滲ませて皆、絶句します。



 『
今思い出れば、まことに身の毛も立ちても出るなり』。
 (;・(,,ェ)・) あの気魄の篭もった『えい!えい!』だろ? 覚えてるとも、今思い出したって身の毛がよだって汗が出る…。


 『人々、大かた目のたましいはいたるぞに』。
 (;・(,,ェ)・) いやぁ、仕方ないって…あんときはみんな、たまげてそれどころじゃなかったんだから…。


 中には、『あの時のことを夢に見て、今まで何回飛び起きたことか…』とか言い出す古兵まで居る始末。
 関ヶ原の合戦で東軍の先鋒を受け持ち、果敢に戦い福岡五十二万石の礎を築いた男達は、いったい誰のことを話して額に汗していたのかと言えば…


 

 
御存知、ひこにゃんの友達の『しまさこにゃん。』





 …おっと違った、こっちじゃねえ。
(声・森山周一郎)
 ( -(,,ェ)-) 今の若い衆にゃポルコ=ロッソなんざわからんぞ、中の人。



 石田三成が自分の領土半分を俸禄に召抱え、彼が不得意だった兵法・軍事を替わって掌った稀代の猛将にして、世に『三成に過ぎたるもの』と呼ばれた歴戦の名軍師・
(しまさこん 1540?〜1600?)のことです。

 島左近は関ヶ原合戦において兵一千を率いて西軍の先陣となり、開戦直後に黒田
の兵五千四百と激突。ざっと見積もっても五倍以上、しかも父・官兵衛の薫陶を受け、福島正則にも合戦の腕前を賞賛された黒田長政率いる部隊を押し返し、その凄まじい咆哮は大いに黒田隊の士気をくじきました。


 上のお話は『常山紀談』、『古郷物語』など複数の書籍に記録されたエピソードで

関ヶ原合戦で長政のもと戦った黒田家のつわもの達も、後日思い返してみれば島左近の凄まじい猛攻と、その麾下が吼える『えい、えい!』という鯨波(とき)の声に恐怖しか感じず、島左近の姿すら記憶に残っていなかった

というお話です。

 しかし、左近はこの獅子奮迅の死闘の末に黒田隊の鉄炮一斉射撃を受けて負傷。
 そのまま討死したとも戦場を落ち延びたとも言われていますが…何にせよ、天下分け目の合戦で敵軍総帥・石田三成が頼りにする軍師を最初にしとめたことは、長く黒田家にとって誇りとなる武勲となりました。

 ( ・(,,ェ)・) …ちなみに黒田家の関係者が後日、西軍だった島津家に確認をとったところ『左近は真っ赤な鎧にクワガタムシみたいな兜かぶって、ライトグリーンの陣羽織着てた。』という回答をもらったそうです。こんなド派手な格好をするとは、さすがに島左近。傾くねェ。



 さて、そんな『鬼神をも欺く』と評され"
左近"とも綽名された彼ですが、その性格もまた鬼に相応しい豪放磊落。



 理想家で政治判断を多く含む官僚思考の三成とは違い、現実的で妥当だと判断できれば、手段を選ばずすっぱりと口に出す兵法家…また、そうすることが出来る自信家だったようです。











■あるとき、主君である石田三成が殷賑を極める豊臣政権のお膝元・大坂の街の繁栄振りを誇り左近に語りかけたことがあったのですが、左近の反応は鈍。

 いったいどうしたのだ、と三成が問いただすと、

『何を仰せられる。
 …殿には賑やかな街の中心部だけが見えて、片隅にある粗末な小屋で暮らす庶民の貧乏が見えていないようですな。』


 とピシャリ。




■また、その大坂の街に栄華をもたらした太閤秀吉が逝去し、徳川家康が次の天下を狙って蠢動を始めれば思い悩む三成を前に、



豊臣家の天下を守りたいなら、家康を
するよりほか手立てはござらん。あの小太りの白髪頭ひとつで、流れは一変しますぞ。

 と涼しい顔で言ってのけました。さすがは叩き上げの戦国武将、言うことが違います。


■『そんな卑怯なまねは出来ない』と三成が臆して二の足を踏めば、これまたすかさず


なら、ちったぁ他の武将と仲良くして藩閥を広げて下され。

 ぶっちゃけ、殿は諸将に嫌われ過ぎです。
 武士の上に立つ者は、軍事力を誇って城を築くことより、徳と礼儀をわきまえて人望を得ることのほうがよっぽど大事でござる!


 とさらに剛速球。軽く二十歳は年上だったと思われる島左近の諫言には、さしもの頭脳明晰な官僚肌もヘソを曲げたことでしょう。




 しかし…織田信長も豊臣秀吉も亡きあとの戦国乱世にあって、徳川家康と言えば文字通りの最右翼。
 関東二百五十万石という途方もない領土と命知らずの三河武士を家来に持つ、財力・武力ともに当代No.1の実力者なのですが…左近はなぜ、ここまで強気に向うを張ることが出来たのでしょう?


 実は島左近、徳川家康が戦場で圧倒的な敗北を喫し、命からがら逃げ惑う後ろ姿を"追う側"として過去に見たことがあるからです。



 この話は、彼が関ヶ原合戦前夜の軍議で『明日の一戦、味方の勝利は間違い無し!!』と自信満々に高言した後、

左近も久々にて府の押付けを見申すに此れ有るべし
 と言ってのけた話として、『天元実記』という書籍に残されているエピソードから。


 "内府"というのは当時の内大臣、皆さん御存知・徳川家康のこと。
 "押付け"というのは当時の戦国武将が身に纏った鎧、当世具足の背中の部分のことなので、つまり左近は『前にも家康が逃げる後姿を見たことがあるから、今回もその醜態を拝ませてやろう』と言ってるわけです。



 この発言を耳にして、聞き逃せなかった人が若干一名。

左近同様に『』と怖れられた薩摩島津家の驍将・島津
です。
( ・(,,ェ)・) 漫画単行本としては近年ありえない販売数で話題になった平野耕太の漫画『DRIFTERS』の主人公です。言わずもがなですねハイ。



 『好い加減なことを言うな、いつ見たんだ!!』と詰め寄る若き薩摩隼人の激昂を見て、左近は長年連れ添った百戦錬磨の部下達と余裕綽綽。




我らは若年の頃、法性院殿…かの田信玄の麾下にあり、山県昌景の下で働いたことがあった。

 赤備えの一員として家康めを猛追撃し、掛川城まで押し込んだことがあるのでな。


 

 武勲赫々たる""左近の面目躍如、明日の天下分け目は勝利間違いなしと確信する老軍師の得意げな顔が眼に浮かぶような歴史秘話です。


戦国時代の知られざる秘話やためになる格言、知識を得たい人は
筆者ホームページ『赤髭亭』へGo!!

■赤

http://akahigetei.weblike.jp/main.html



 ( ・(,,ェ)・) ちなみに、左近の武勲自慢を聞いた我らが島津豊久は

『それは"杓子定規"というものだ。左近翁が過去に張り倒した家康と、今の家康が同じ実力であるとは限るまいに!!』

と果敢に言い返したそうです。

 きっと左近は西軍の士気を昂揚させるためのハッパとして言い放ったのでしょうが、そこは根が朴訥で槍働きにかけては譲れない一線を誇る薩摩隼人、言い返さずにはいられなかったんでしょうね。




"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第三十四夜】

JUGEMテーマ:コラム



 ■四月二十日のトリビア
 豊臣家五奉行にして義に殉じた悲運の将こと
 石田三成。豊臣秀吉に仕えて頭角を現したが、
 秀吉に幼馴染の彼
を奪われたことがある。  



■歴女の皆様に絶大な支持のある治部少輔、その過去に隠された光と陰。

 石田治部少輔三成。歴史fanの皆様御存知、天下分け目の関ヶ原で西軍の総帥として麾を振るった日本史に名を残す人物。

 ここ最近では、09年大河『天地人』で今をときめく小栗旬さんが『義に厚く優秀、だけど高慢なのが玉に瑕』というステレオタイプの三成を好演したのが記憶に残るところですが…実は彼の過去に、下手な韓流ドラマも真っ青な
去があったことは皆さん御存知でしょうか。
 
  ( ・(,,ェ)・) 当然ながら、いわゆる巷説…ちゃんとした裏づけのないヨタ話ですが、まぁエピソードに真贋入り乱れるのが有名な戦国武将のステイタスですからそこは一つ。


 石田三成が、後に命運を賭して守ることとなった豊臣家と関係を持ったのは、1574年(天正二年)。

ちょうど近江国(現滋賀県)の大名であった浅井長政が滅び、その旧領地を与えられた羽柴秀吉が長浜城を築き居城とした頃で、秀吉は領民の人心掌握のため盛んに城下に赴き、鷹狩りをしては領内の立地把握に努めていました。

 そんなある日のこと、鷹狩りで咽喉が渇いた秀吉は茶を所望するため、伊吹山観音寺というお寺に立ち寄ったところ…―――。


 …まぁ、いっか。こんな話は皆さん耳にタコでしょうから、ここではくとします。
 ( -(,,ェ)-) ぶっちゃけたら、お寺の小僧だった三成が秀吉に淹れたお茶の湯加減三発でがっちり内定とったっていう、あの話です。




 俗に『三碗の才』(さんわんのさい)と後世に伝承された、後に豊臣家五奉行として様々な政策に参画した三成の機智を示す逸話ですが


…――実はこの出来すぎた馴れ初めには、ある女性の惑が関係していたのです。

 その女性の名は、の方(おようのかた 1558?〜1634?)。
 当時、秀吉の側室となり『南殿』(みなみどの)と呼ばれていた、十七歳の美少女です。



 実はこのお葉ちゃん、三成と同じ石田一族の出身。父の石田長楽庵(いしだちょうらくあん)は浅井家の右筆として仕えた人物で、多くの浅井家遺臣たちがそうだったように、秀吉のもとで働いていました。

 長楽庵は三成の父・石田正継とも懇意であり、言ってみれば三成とお葉は幼馴染のようなもの。

 はい、御明察。…相思相愛の許婚関係、二人の将来は約束されていました。



 ところが、折悪く…この頃の秀吉は仲睦まじい関係だった正室の高台院(ねね、と呼んだ方が通りが良いでしょうか)が女盛りを過ぎたこともあり浮気症が加熱。

 長浜城主となり側室を囲う余裕も出来た上、38歳という戦国時代では次世代への継承を考える時期になってまだ子供に恵まれなかったこともあり、相当数の女性に声を掛けていたようなのです。
 (;-(,,ェ)-) 『秀吉の浮気がありえないくらい多い!どう思いますぅっ!?』って、ぶち切れた高台院が織田信長あてに手紙を書いたのもこのころですね。



 
そして…何の運命の悪戯か。秀吉が放った白羽の矢は、於葉ちゃんにStrikeしてしまったんです。


 既に羽柴家の家臣間でも美貌が評判になっていた於葉ちゃんを見た秀吉はぞっこん惚れてしまい、石田長楽庵を口説き落として…これを半ば強引に自分の側室にしてしまいました。

 長楽庵も苦悩したことでしょうが、既に浅井家は滅び羽柴家の…戦国の覇者・織田信長の勢力は磐石です。御家のことを考えれば断ることなど出来ません。



 二歳年下の幼馴染にして恋人・三成との離別に、於葉は嘆き悲しむことこの上ない有様でしたが…――やはり聡明な人だったのでしょう。この関係を機に、三成を秀吉に引き合わせて出世栄達の道を開こうと考えます。


 こうして彼女は『南殿』となり、鷹狩りに出かけた秀吉が咽喉の渇きを訴えた頃合をみはからって観音寺へ案内し、『同族の優秀な人物』として三成を引き逢わせました。

 かくして石田三成は、本人の思惑は関係ないとは言え…人を犠牲にして、戦国武将として世に出ることになります。

 また、秀吉もひとかどの人物…彼がいわくつきの関係であると察してはいても、その優れた観察眼で彼の才覚を見抜いていたことでしょうから…あの出来すぎた話である『三碗の才』も、そうした見方をすると途端、複雑な恋愛模様が交錯した物語となってきます。



 そして、三成が於葉の手引きで羽柴家に仕官して一年余りの月日が過ぎたある日…南殿は、男児を出産しました。


 四十路直前にして初めて授かった男児に秀吉は大喜び、石松丸と名づけ…更には気が早いことに、羽柴秀勝(ひでかつ)と将来元服したときの諱まで決めてしまいましたが…――それを聞いた石田三成と、南殿の心中はいかばかりだったことか。
 ( ・(,,ェ)・) 秀吉には、『秀勝』という名前の子供が三人いますが、実際に親子なのはこの石松丸秀勝だけです。信長から貰った養子は於次丸秀勝、大河『江』で登場した江の2nd旦那は姉の子・小吉秀勝。


 しかも、その石松丸秀勝は生後一年足らずでまさかの
死。

 悲哀にくれた南殿…お葉ちゃんも、後を追うかのように琵琶湖で入水自
してしまいました。



 無理矢理に幼馴染と引き離され、その彼を略奪した夫に推挙したけど…子供が出来た上に夭折してしまった。南殿が命を断った理由は今でもはっきりしていませんが、そんないきさつがもし本当にあったとしたら、その無念は察するにあまりあります。とてもじゃありませんが、三成とも合わす顔がありませんからね…。



 彼女の死後、三成は何かに憑かれたかの様に頭脳明晰、不惜身命の働きを重ねます。それはもう、あの秀吉から『家臣の中で、自分と比べて遜色ない才器があるのは三成だけ』と言わしめるほどの大活躍です。

 秀吉にとっての天下分け目、賤ヶ岳の合戦では後に刎頚の友となる大谷吉継と組んで槍働きし首級を挙げたほか、美濃国大垣から全速力で帰還する秀吉軍の進路を開き、事前に篝火と食糧・武具を準備することで常識を覆す軍団移動を実現。

 これに驚いた柴田勝家の先鋒・佐久間盛政は浮き足立ち敗走、これが秀吉勝利を呼び込むことになり…三成は『賤ヶ岳の七本槍』として名を挙げた加藤清正や福島正則らと勝るるに劣らない勲功を立てていたことになります。
 ( ・(,,ェ)・) 『石田三成には戦場で立てた武勲がない』なんて話はよく聞きますが、ちゃんと敵の首級を討ちとるような手柄も立ててるんですね。もっとも、人違いだという説(桜井佐吉という武将が取った首が、石田佐吉(三成)の取ったものと勘違いされた)なんてのもありますけども。


 その後、三成は豊臣政権の中枢を担う政務官僚へ転進し、堺奉行など数々の重職を歴任。

 後に豊臣家五奉行となる浅野長政・前田玄以・増田長盛・長束正家らと共に秀吉栄華の屋台骨を担い、特に豊臣政権最大の事業であった太閤検地では主導責任者に大抜擢。
 秀吉から検地に関する全権を任されるなど、優れた行政手腕で年上の彼ら先輩らにも一目置かれるニューリーダーとして成長していきます。

 あまりの寵愛振りとスピード出世、他を省みない冷淡で傲慢(に思われていた)
性格が災いし、他の豊臣家武将から忌み嫌われたほど。しかも無愛想で職務や規則に忠実な三成は孤独を深めていくわけですが…――そんな人間関係など気にもなりません。

 秀吉の政治顧問だった千利休が豊臣家の政治基盤を揺るがす存在になり、秀吉と疎遠になればこれをすかざす排除して権力を掌握。

 秀吉の後を継いで関白職になった豊臣秀次が不穏な行動に出れば、彼を切腹を追い込んだ挙句残された家族まで皆殺しという惨劇に導く。

 そして、生きていれば太閤没後に天下を狙うとまで噂されていた蒲生氏郷も先手を打って毒殺してしまった。

 ――何がいったい、三成をそこまで冷徹にさせるのでしょう?




 …彼にとって豊臣家とは命を賭して守るべき場所、働かなければならない御家だったからです。
かつての恋人・於葉ちゃんの命を、無駄にしないために。


 恋敵だった太閤秀吉が逝去したあとも、三成の豊臣家への忠誠は揺るがず…それは関ヶ原の合戦で惜しくも家康に敗れ、恥も外聞も無く逃走した末に捕縛され、京都六条河原で刑場の露に消えるその寸前まで彼を突き動かし続けました。


 そもそも、彼が1600年(慶長五年)に引き起こした天下分け目の代名詞たる一大決戦は、当初計画を打ち明けられた朋友・大谷吉継をして『無謀である』と驚愕させるほどの『無茶な賭け』でした。

 相手は関東二百五十万石を領する豊臣家五大老の筆頭格であり、かつては武田信玄や織田信長らとしのぎを削った老練歴戦の戦国武将、そして慕われる人脈も確かな次世代の旗手。天下簒奪を目論むと噂に高いとはいえ、歯向かうこと自体が馬鹿げています。


 それでも、三成は家康に挑まなければならなかったのです。幼馴染だった恋人が一命を賭して推挙してくれた豊臣家を、守るために――。





戦国時代の知られざる秘話やためになる格言、知識を得たい人は
筆者ホームページ『赤髭亭』へGo!!


■赤

http://akahigetei.weblike.jp/main.html



       ――――――― 切り取り線 ―――――――

 ( ・(,,ェ)・) 南殿は、実在こそ確認されていますが詳しい背景が不明とされ、現在も論議が続いています。於葉の方とは必ずしも同一人物ではありません。(南殿は1634年に死亡が確認されています。)

 ( -(,,ェ)-) 三成が一命を賭けて守ろうとした豊臣家最後の総領・豊臣秀頼。実は彼の父親は秀吉ではなく、石田三成だという巷説があります。
…その理由は…―-彼女を寝取った報復。これ言っちゃうと今回のお話は美談でもなんでもなくなるので、最後にぷちっとだけ書いて終わることにしました。


calendar
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< May 2019 >>

■今後、赤髭の活動拠点はHPにも拡大!!

より一層深い戦国知識と知られざる歴史秘話は
『赤髭亭』
にて御覧いただけます!!



■相互リンク
☆【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう! おもしろすぎる戦いの数々

富田様のサイト。戦国時代における合戦にスポットを当てて紹介されています。

■硬派かつ忠実・重厚な戦国歴史大河を、月額980円/四本で自宅に居ながらレンタル・視聴・返却!!
DVDレンタルはDMMで!!
selected entries
categories
archives
recent comment
recommend
■戦乱の世を生きた姫、激動の生涯。

江(ごう) 姫たちの戦国 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

新品価格
¥1,100から
(2011/2/16 18:34時点)

affiliates


■山本勘助、織田信長ら今人気の戦国武将の人生をPSPで疑似体験!!

太閤立志伝V

新品価格
¥4,118から
(2011/3/9 20:20時点)

■本格派かつ新鮮、新鮮かつ重厚。本格歴史大河!!

NHK大河ドラマ 風林火山 完全版 第壱集 [DVD]

新品価格
¥32,337から
(2011/2/16 17:56時点)



■インターネットビジネスを始めるなら、ホームページアドレスが判りやすい独自ドメインがオススメ!
『お名前.com』へご相談を!!


links

当ブログはリンクフリーです。
相互リンク御希望の方は
コメントをお願いします。



■ペンズオイルの
国内正規取扱店です

グリーンフラッグ


にほんブログ村 歴史ブログへ



ブログランキング・ブログ王


当ブログは『ブログ王』に参加しています。


■本格派歴史大河!!戦国乱世を駆ける隻眼の軍師の活躍!!

NHK大河ドラマ 風林火山 完全版 第弐集 [DVD]

新品価格
¥18,480から
(2011/2/16 17:59時点)



profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM