"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第四十三夜】

JUGEMテーマ:コラム



 戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)

 

 ■七月二日のトリビア

  織田信長の上洛前、畿内に君臨した三好長慶。
 実は二度も暗
未遂事件に巻き込まれており、
 そのうち一度は兇刃を受けて負傷している。

 

 

 

織田信長をも下に見た室町幕府最後の梟雄、
その最盛期に遭遇した二度の奇禍とは


 織田信長や豊臣秀吉に知名度では劣れど、その武勲や才覚には見劣り無し。

 赤髭が事ある毎に『下人』と強調する、阿波徳島が生んだ戦国武将―――といえば、読者の皆様には既に御馴染みとなっているでしょう…三好(みよしながよし)に他なりません。

 赤髭も長慶Fanの嗜み、歴史的なゆかりのある地は方々巡り歩きました。
生誕の地・徳島県芝生
(しぼう)城跡は勿論の事、三ヶ所ある御墓も既に二ヶ所までは御参りしています。
( ・(,,ェ)・)最後の一ヶ所は京都府大徳寺・聚光院(じゅこういん)なのですが、聚光院は一般非公開。数年に一度行われる特別参拝でも、三好長慶のお墓は参拝不可能となっております。何とかインチキ参拝する手はないもんですかね(嘆息。


 



 

 

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 最盛期には主君である管領細川家はおろか足利将軍家までも京都から追い払い、名実共に『天下人』として京都・五畿に君臨した三好長慶ですが…―――実は二回も暗殺未遂事件に遇していることは、案外と知られていません。

 


 時は1551年(天文二十年)、3月4日


 長慶は一千人余りの従者を連れ、室町幕府政所執事・伊勢(いせさだたか ????〜1562 伊勢守)の屋敷を訪れました。

 伊勢貞孝は、かの北条早雲を輩出した幕府の名門・伊勢家の総領です。本来は足利将軍家に逆らう三好家とは不倶戴天の敵同士、のはずでしたが――――三好家とは共闘関係にあり、長慶は賓客として酒宴で歓待されることになりました。
( ・(,,ェ)・) 余談ですが、1562年(永禄五年)にはこの歪な友好関係は破綻に至り、伊勢貞孝は京都船岡山で三好義興・松永久秀軍に敗れて討死しています。


 3月7日、その返礼として今度は長慶が京都逗留の際に宿所としていた吉祥院に貞孝を招待し、酒宴を催したのですが…―――その夜、その吉祥院に”小童”…小さな子供が入して来たというのです。

京雀
(きょうすずめ)、と言えば京の都に住む、耳聡くて口喧しい者達の代名詞です。

 彼らはその気になれば京都近隣で起きた合戦場まで手弁当持って”観戦”しに行くなど、大胆不敵な好奇心を持ち合わせて居ますが…流石に幕府の実力者二人が宿泊しているところへ、しかも夜に忍び込んできたというのは頂けません。

 すぐに小童は捕縛され、厳しい拷問の末に『屋敷を
き討ちして、長慶と貞孝を殺すつもりだった』と、驚愕の魂胆を白状しました。


 翌8日早朝には近所で潜伏していた共犯者が捕縛され、彼の証言をもとに下京で更にもう一人の共犯者が捕縛されました。

 彼ら三人の言では『同胞は六十人近く居る』との事でしたが、更なる逮捕者は出ず…8日夕方、三人は揃って処刑されました。(言継卿記)


 次の暗殺未遂事件は、その9日後…―――3月14日の夕暮れ時に起こります。
 伊勢貞孝の宿所、というから邸宅でしょうか―――またしても長慶は酒宴に招かれ、座敷で寛いでいたのですが…――宴に参加していた幕府奉公衆・進士
(しんじかたみつ ????〜1551 九郎)が突如として抜刀し、長慶をう暴挙に出たのです。

 幕府
公衆(ばくふほうこうしゅう)とは江戸幕府で言うところの『旗本』と言うべきでしょうか、
戦国大名のように広大な領地や軍事力こそ持っていませんが、格式では将軍家の直臣なので名誉ある者達です。

 普段の勤めは将軍家を守る護衛程度のものですが、いざ合戦となれば将軍麾下の親衛隊となって戦うのですから、忠誠心に厚く勇敢な者が選ばれていたようです。

 

 進士賢光は長慶に踊り掛かって”三刀突いた”とありますから、脇差か何かで刺殺するつもりだったのでしょう。
( ・(,,ェ)・)座敷で太刀や打刀(うちがたな)を抜いても、鴨居や襖が邪魔になって斬れません。脇差を使うのであれば斬りかかるより刺すべきで、この”三刀刺す”(みがたなさす)という表現は、武将が相手を殺しにかかるときに良く出る言葉だったりします。


( ・(,,ェ)・)後年、忠臣蔵で有名になった浅野内匠頭は『小さ刀』という刃渡りの短い儀式用の刀で吉良上野介に”斬りかかった”らしく、「初手は突き、二度目はなどか切ら(吉良)ざらん」と江戸の庶民に、武士らしからぬ無知を嘲笑われました。
 

 

 


 で、長慶はどうなったかと言うと―――…はっきりとは判りませんが、どうやら傷で済んだようです。

 


 『二刀通った』(厳助大僧正記)『数ヶ所、手傷を負った』(長享年後畿内兵乱記)などと史書によって記載内容に揺れがありますが、長慶の傍に居た同朋(茶坊主)の何阿弥が決死の覚悟で賢光を抱きとめ、長慶は振り下ろされた刃を『』で受け止めたと言いますから、刀を抜く暇もないほどの急襲だったのでしょう。(足利季世記)
 

 


 


 暗殺失敗を悟った賢光は、即座に自身の首を掻き切って自害しました。


 進士賢光は領地問題で前々から長慶に恨みがあったとも、『御所様から”長慶と伊勢貞孝をせ”と命令された』とも言われており、襲撃の動機は今現在もはっきり判っていません。
( ・(,,ェ)・)なお、明智光秀はこの進士家の出身という説があるそうです。後に幕府申次衆として活躍した
進士晴舎(しんじはるいえ)は光秀の長兄、賢光が三兄に当たるのだとかで、光秀の家臣には進士貞連・伊勢貞興(貞孝の孫)など、この事件に関係した武将の縁戚が名を連ねています。


 


 ですが、”御所様”とは時の室町幕府将軍・足利義(あしかがよしてる 1536〜1565 従四位・征夷大将軍)の事です。


 応仁の乱以降、室町幕府の歴代将軍は武家の総領たる威光も覇気も失って”お飾り人形”と化していたのですが、義輝は鹿島新当流を開いた剣豪・塚原卜伝(つかはらぼくでん)から奥義『一之太刀』を伝授されるほどの”暴れん坊”。

 長慶に京都を追われて近江国(現滋賀県)の朽木谷に亡命していましたが、様々な手段を駆使して長慶一党の排除・京都奪還を目論んでいました。

 

 

実力の伴わない義輝の志は、後に悲劇的な最後を招くことになる。

 

 

 事実、3月15日…つまり二度目の暗殺未遂事件の翌日、義輝が頼みとする管領細川家の家臣・香西元成(こうざいもとなり)と三好政勝(みよしまさかつ)が軍勢を率いて京都東山を襲撃・焼討ちしており、これは長慶暗殺後の混乱を狙って京都攻略を計るものだったとされています。

( ・(,,ェ)・) 三好政勝は姓こそ”三好”ですが、長慶とは敵対関係にありました。近年の研究では後に”三好三人衆”の一角として長慶没後の京都を支配した三好政康(みよしまさやす)と同一人物である可能性が高いそうです。

 


 最初の暗殺計画(小童による放火)、出典によっては義輝の図によるものだったとされており、長慶は足利将軍家に二度も命を狙われたことになります。

 

 

 


 けれど、三好長慶という人は”梟雄”と呼ぶには少々、気のしすぎる人だったようです。

 

 この事件から僅か十ヵ月後の1552年(天文二十一年)1月28日、長慶は自分の命を二度も闇討ちしようとした足利義輝とまさかの和(わぼく。講和条約締結のこと)に至ります。義輝は亡命先の朽木谷から京都に復帰し、長慶の京都支配は終焉を迎えました。 


 足利義輝と三好長慶の主従関係は以後も、仲違いと仲直りを再三繰り返すことになるのですが…―――長慶は1564年
(永禄七年)8月10日にこの世を去るまで一貫して義輝を主君と崇め、その斥を謀ることはありませんでした。

 

 

 

 

五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで By足利義輝辞世の句

 

 そして義輝は皮肉なことに、その一年後…1565年(永禄八年)6月17日、長慶の養嗣子である三好義継とその家臣・松永久秀の謀反に遭い、される憂き目を見ることになるのです。
 

 

 



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"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第四十二夜】

 




 戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)

 

■三月三十日のトリビア

 秀吉の”軍師”として名高い竹中半兵衛。
 彼が言うには、秀吉の家臣で最
の武将は
       
加藤清正でも福島正則でもない。




”賤ヶ岳の七本槍”の武勲も遠く及ばない?
秀吉麾下で勇名を馳せた
将の存在。


 1579年(天正六年)の或る日、播磨国(現兵庫県)は姫路城城主に就いていた羽柴秀吉は家臣達の忠勤を労うため、酒宴を開きました。

 嘗ては尾張国・中村の百姓出身だった”猿”…――日吉丸も今ではトントン拍子に出世を重ねて”木綿藤吉”…筑前守の官職を拝命した、一端の戦国武将に栄達していました。

 その地位たるや、一国一城の主どころか…”戦国の覇者”織田信長の天下布武を担う、中国方面の軍団長です。
 彼の飛躍を支えたその麾下には、蜂須賀正勝・竹中半兵衛・黒田官兵衛・羽柴秀長といった智勇兼備の名将達…そして福島正則や加藤清正、石田三成に大谷吉継、小西行長といった若き驍将達が轡を並べており、織田家中でも随一の器量良しが揃って居ました。


 

 さすがは”人誑し”の面目躍如。調子乗んな市松っ。
 

 秀吉は杯を片手に上機嫌。宴も酣(たけなわ)となった賑やかさの中、家臣達を前に自画自賛。良い塩梅に酔っ払った家臣達も『三倍、いや倍にはなり申した!!』と自分達の働きに喝采を惜しみません。



 秀吉も調子に乗って、織田信長の覚えも目出度い羽柴軍団の働きを褒め称えたものでしたが…―――その空気に水を差す、死期も間近かと思うほど蒼白い顔をした優男が一人。


 


竹中半兵衛は空気を読めない、いや読まない。
 


 …和気藹々だった場の空気が予想外の反論に硬直し、その静寂が不穏に変わって行ったのは言う迄もありません。
 蜂須賀正勝や羽柴秀長は悪夢の様だった撤退戦『金ヶ崎の退き口』を秀吉と共に生き抜きいた朋輩ですし、後に”賤ヶ岳の七本槍”筆頭として名を馳せた福島正則や加藤清正も、まだまだ血気盛ん。

 ここ数年は病魔に冒され、ぱっとしない存在になっていた軍師殿に駄目出しされてはさぞかし癪に障ったことでしょう。



 『何を言うか!!』と、空気を読めない…否、読まない天才肌の軍師殿に秀吉が反論したのも無理はありませんが…それでも尚、半兵衛は引き下がりません。

 


去年討死した羽柴家最強武将、殿はもうお忘れか?
 

 この言葉が出た途端、宴の雰囲気…そして半兵衛の放言に憤懣やるかたない様子だった秀吉以下、家臣達の意気もすっかりと消沈してしまいした。宮田喜八とは、それだけの働きを為した武将だったようです。


 

宮田喜八さえ生きてりゃ、後々の豊臣家もあんなに凋落しなかったものを。

 


 『豊臣秀吉の家臣』というと、有名どころでは蜂須賀正勝や竹中半兵衛、加藤清正や福島正則、石田三成といった名前が思い浮かびますが…正勝と半兵衛は1567年(永禄十年)、織田信長が美濃国を攻略する前後からの付き合いですし、清正らが活躍するようになったのはそれよりずっと後の事です。
( ・(,,ェ)・) それに、蜂須賀正勝と竹中半兵衛はあくまで”寄騎”…信長直属の家臣であり、秀吉からみると彼らは『本社からの出向社員 兼 見張り番』だったのではないかという説もありますので、そうなると”秀吉の家臣”じゃないんですよね。

 そんな秀吉がまだ身分も低く、正勝たちの協力が得られなかった小身の頃から従った古株の家臣達…その中でも特に”武勇絶倫”と讃えられたのが、半兵衛が言った宮田(みやたきはち ????〜1578 光次・喜八郎)です。


 江戸時代の軍学者・山鹿素行
(やまがそこう)が秀吉創業の功臣として選出した『羽柴天王』の中でも勲一等、筆頭格とされたのが宮田喜八ですが…彼がいかにして『太閤の臣に宮田喜八とて武勇第の人あり(老人雑話)』と謳われたか、その生涯や経歴については残念ながら殆ど判っていません。
( ・(,,ェ)・) なお、『羽柴四天王』の他三人は神子田正治・尾藤知宣・戸田勝隆ですが、尾藤知宣の弟・宇多頼忠の娘が真田昌幸の正室・山手殿だという説があります。

 秀吉が近江国長浜城城主となった1573年
(天正元年)に250貫、秀吉が播磨国姫路城に移ってからは5千石
(一説には七千石)の所領を得る出世を果たした、ということくらい。
( ・(,,ェ)・) この宴会が開かれた1579年頃の福島正則が200石、加藤清正は170石、大谷吉継が150石ほどでした。
 一石は十升、一升は十合。天正頃の一石は現在の貨幣価値でだいたい8万円から10万円ほどであり、戦国武将が領地から得られる平均的な収入が約60%くらいだったのですから…えーっと、福島正則が年収960万円くらいだったのに対し、喜八は年収二億四千万。


 そして1578年
(天正五年)五月、織田家に叛旗を翻した播磨三木城城主・別所長治との戦いでしたという最期が語られるばかりです。



 赤髭が思うに、彼の功績が余り世に伝わっていないのは…喜八が早くに討死を遂げてしまった為に宮田家が
落してしまい、その業績を語り継ぐ子孫が繁栄しなかったせいでしょう。
 幾ら喜八が半兵衛に讃えられる大活躍を為そうと、五百年後にその生き様を伝えた記録や末裔が残らなければ…平成日本がいくら未曾有の戦国時代ブームであっても、私達には知る由がありません。


 宴の席で雁首揃えていたであろう秀吉の家臣達が誰一人と反論出来なかった稀代の猛者でありながら、戦国乱世の桧舞台より立ち去った後は歴史に埋没してしまった宮田喜八。

 もし、彼が長く秀吉家臣として活躍していたら…福島正則も加藤清正も、ひょっとしたら真田幸村すらも、その後塵を拝し続けて―――逆に、歴史の
に埋もれていたかも知れません。


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"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第四十一夜】

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 戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■十月六日のトリビア

 問題に対して打つ手段が無いことをいう慣用句
 『手立てがない』。実はこの
"立て"とは
 
合戦の際に足軽が使った盾のことである。



■ファンタジー世界の騎士は御用達なのに、
 戦国時代の武将はなんでアレを持っていないのか?


 
『西洋や幻想世界の騎士や戦士は頑丈そうな鉄の盾を携帯してることが多いけど、なぜ日本の武士ってを持っていないの?

 はい、ごもっとも。
( ・(,,ェ)・) 最近、トリビアと銘打っておきながら本家HPに読み物として掲載できるようなクオリティで正直もったいない長文ばかりが続きましたので、今宵は軽く読み流せるような文章をご案内する予定です。肩の力は抜いて結構ですが、腰の刀は抜かないで下さい。


 最近の戦国時代ブームで注目されるようになった戦国時代の当世具足、またそれ以前から主に家庭用ゲームのRPGなどで子供達の憧れでもあった勇者たちが身を守るために装備する鉄の鎧や兜。
 戦国時代系のドラマや漫画、ゲーム情報掲載紙などを御覧になって、こんな疑問を持たれた人は結構な数いらっしゃるのではないでしょうか。


 
        

 実は、あんまり使い勝手が良くなくて出番が乏しかっただけで、上記イラストの様な足軽用の楯というものは日本の合戦史上にもちゃんと
在はしていました。

 川中島の合戦や長篠の合戦、関ヶ原の合戦などの情景を描いた屏風絵などを見ると、戦場で並べられている長方形の板の様なものがそれで、大楯
(おおたて)と呼ばれるものが主でした。
 大楯は幅が50cm、高さが150cmほどの硬い木材で出来た楯で、裏に自立できる様につっかえ棒の様な支え
(撞木)があり、最前線で戦う足軽が敵の弓矢から身を守るために背中に担いで移動させ、衝立の様に設置して進むものです。

 一枚や二枚、立てかけても大した防御力は期待できないため、複数枚を並べて立てかけることで簡易の矢避け要塞を作ることに利用され、横一列三枚が基本。この並んだ上体の楯を
(かいだて)、わざとちぐはぐに並べて隙間を作り、攻撃用の出撃口を作ったものを『めどり羽(は)』と呼びました。

 戦場の主戦力だった足軽や雑兵がまだ白兵戦を担当していた平安時代末期から鎌倉時代前期には大いに用いられ、これに対して個人用の楯…横幅が40cm、縦幅が50〜60cmの手持ち楯も大いに重宝されました。
 まだ槍や薙刀などの長柄武器が登場していない時代、太刀を抜いて戦場を駆け抜けていた足軽達にとってこの手持ち楯、『
(てだて)は貧弱だった鎧よりも重要なものであり、これが無いと迂闊に戦場に出られないため、問題や障害に対して有効な手段がないことを示す慣用句である『手立てがい』という言葉の語源になったという説もあるようです。

 

   
  
 

 しかし、足軽の必携装備だったこの手楯も戦場の兵法が大きく様変わりした鎌倉時代中期頃より重要性が薄れ、戦場では省みられなくなっていきました。
 それまで白兵戦を担当していた足軽達がこぞって弓矢を撃つようになり、両手がふさがってしまったこと…――そして、この程度の木製楯では構えたところで雨霰と射掛けられる鏃を防ぐことが出来なかったからです。
( ・(,,ェ)・) 投石くらいなら十分防げたでしょうが、日本の弓矢攻撃はモンゴルの騎馬民族譲りな非常に強いものです。鉄製でもきっと、手持ちの楯じゃ勝負にならなかったでしょうね。

 さらに、戦国時代の到来により鎌倉時代以来の弓矢も更に進化、破壊力に磨きが掛かり…一人前の足軽であれば、立てかけて置いた畳三枚を余裕で貫通するようになります。おまけに、長さ6mを超える足軽槍が戦場の主戦力となり…ついで火縄銃が登場したことにより、楯の存在価値はほぼ
ゼロになってしまいました。
( ・(,,ェ)・) とくに火縄銃の登場は、楯だけでなく西洋の鎧や兜にまで致命傷でした。いくら鍛冶屋が頑張って分厚い鎧をつくっても、至近距離から火縄銃を喰らえば貫通してしまうようになったからです。ファンタジーRPGの主人公達や、『魔界村』のアーサーが着ているようながっちがちの全身鎧が戦場の表舞台より消え去ります。


 そうして、時代が進み…平和な江戸時代や明治維新を迎える頃には、無くては手立てがうてないとまで信頼された『楯』の存在感は完璧に忘れ去られてしまうことになるのです。
( ・(,,ェ)・) さて、今回は短文でお茶を濁しましたが…次回は読み応えのあるものを掲載します。―――いえ、今回の更新に長いコラムが間に合わなくって手立てが無いからこんなの書いたとかそんな決して(ry

 次回更新は10/9〜10/10の予定です。乞う御期待!!

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"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第四十夜】

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 戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)

 

■九月二十九日のトリビア

 豊臣秀吉の参謀であり、股肱の臣でもある
 蜂須賀正勝。山賊・野武士の頭領を勤め、
 
巨漢という印象があるが、実はそうでもない。




■"難波の太閤殿下"豊臣秀吉の立身出世を陰から
 支えた豪放磊落な山賊大将、具足に見る実像とは?


 さて、突然ですが…――読者の皆様は、御自分の出身地の『殿様』が誰だったか、なんてのは御存知でしょうか?
 戦国時代の『戦国大名』ではなく、徳川幕府が開かれた江戸時代以降、親藩・譜代・外様に分類され日本各地に○○藩××家として領地を得ていた、俗で言う『殿様』というやつです。

 御国柄によっては、江戸幕府による廃藩や転封により途中で殿様が変わっていたりお家断絶になったりと、一概に『殿様と言えば誰』とは言い難いかもしれませんが…赤髭の見た感じ、戦国武将と違って江戸時代の『殿様』というのはよほど地元民に慕われない限り、話題になることは
いように感じられます。

( ・(,,ェ)・) 例えば、淡路島の洲本市では…江戸時代初期の僅かな期間、島を治めていた賤ヶ岳の七本槍・脇坂安治が殿様として慕われており、洲本城でも脇坂安治の旗印・輪違い紋が翻り、城内の石碑でも淡路の殿様としてリスペクトされてました。
 江戸時代の大半、淡路島を治めていたのは蜂須賀家なんですがね…。





 まぁ、戦国時代の様な血で血を洗う闘争の時代ではなく平和呆けするほど天下泰平だった時代の殿様にそうそう人気も出るはずはありませんが、もうひとつの理由は基準の複雑さがあること。

 そもそも、今で言う都道府県のまるまる一つ…旧来で言うところの『一
』を治めていた江戸時代の大名というのは、戦国大名と違って数えるほどしか居ません。

 現在は47都道府県ですが、戦国時代当時に北海道と沖縄はまだ日本国じゃなかったので45。戦国時代はさらに細かく、66ヶ国(隠岐島を”国”とカウントすると67)に分かれていました。

 66も国があるのに、数えるほどしかいないのです。

 『
国持大名八家』と呼ばれる全十八家の大名がそれで、彼らが統治した御当地でない限り、同じ都道府県内であっても『殿様』は複数家あるのが普通ですので、同じ県出身の歴史好きであっても『殿様って誰?』と聞けば、違う返答が返って来ることでしょう。


 ( ・(,,ェ)・) 国持大名十八家、願いましては!!

 
加賀(金沢)前田家、越前(福井)松平家、薩摩(鹿児島)島津家長門(山口)毛利家、陸奥(宮城)伊達家、肥後(熊本)細川家、備前(岡山)池田家、因幡(鳥取)池田家、肥前(佐賀)鍋島家、筑前(福岡)黒田家、安芸(広島)浅野家、出羽(秋田)佐竹家出羽(山形)上杉家、土佐(高知)山内家、出雲(島根)松平家、伊勢(三重)藤堂家、筑後(佐賀県久留米)有馬家、そして阿波(徳島)蜂須賀家です。
(赤字は元西軍・青色は両軍に所属・緑は元東軍。)

 全部並べると、お経みたいですね。







 下手をすると隣町でもう違ってたりする『お殿様』。戦国時代ブームは火がついてから数年を経て、今では一大観光・産業としてすっかり定着しましたが、こちらが流行となり風潮に乗るにはまだまだ時間が掛かりそうです。





 さて、『国持大名十八家』の錚々たる顔ぶれを見てみると…乱世を勝ち抜き、江戸時代まで御家を繋いだ戦国武将の子孫達が数多く名を連ねています。

 黒田官兵衛が波乱万丈の生涯を経て築きあげた筑前黒田家、前田利家の血統である加賀前田家、細川幽斎の子孫・肥後細川家…――太閤秀吉の最初の右腕である蜂須賀正勝の後裔・阿波蜂須賀家などです。


 揃いも揃って外様大名…もとは織田信長や豊臣秀吉に仕えていた人達で、関ヶ原の合戦以降に
あんにゃろめ徳川家康の麾下に就いた者。そして、来年の大河『軍師官兵衛』でも登場し、活躍するであろう武将達です。

 赤髭の住む徳島県の『お殿様』である蜂須賀家は、豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だった頃からの右腕であり、参謀としては黒田官兵衛や竹中半兵衛よりも先輩である蜂須賀
(小六)から連なる国持大名十八家の一角、現在の徳島県を総て治めていた押しも押されぬ大大名。

 徳島県が全国に誇る一大イベント・阿波踊りを推奨し、今も『阿波の殿様・蜂須賀様が、今に残せし阿波踊り』と唄われるほど、地元では愛着を持って讃えられています。
( ・(,,ェ)・) もっとも、阿波踊りで一番観光客を動員するのは徳島のじゃなくって東京・高円寺の阿波踊りだそうですが。あっちの人は阿波踊りを東京名物だと信じて疑わないって本当ですかね(余談。

 蜂須賀正勝が世を去った1586年以降はかなり影が薄くなる蜂須賀家、実はあの伊達政宗すら舌を巻くような世渡りの達人や、徳川家康がその武勇に感嘆して養女の婿に迎えるような麒麟児も輩出しているのですが…それをお話するのは別の機会にして。

 今宵は、この阿波蜂須賀家の立役者・蜂須賀正勝についてのちょっと意外なお話を御紹介しましょう。



■黒田官兵衛も竹中半兵衛もヒヨッコ同然。
 豊臣秀吉から最も信頼された右腕・蜂須賀正勝の意外な実像とは


        
       


 96年大河『秀吉』では過激なデスマッチプロレスで一世を風靡した炎の男・大仁田厚さんが、06年大河『功名が辻』では身長2メートル近い巨漢ながらも高角度で落とす"エベレストジャーマン"を切札に、当時のプロレス業界を席捲した高山善廣さんがキャスティングされた蜂須賀正勝。

 

 おかげで大河Fanからは
蜂須賀小六ってプロレスラー枠だよねだとか呼ばれているそうですが、これというのも『蜂須賀正勝って大柄で頑強な体質、打てば響くような放磊落な性格』というイメージが強いからだと思います。
( ・(,,ェ)・) 来年大河『軍師官兵衛』でも登場間違いなしなのですが、今年は誰がキャスティングされるんでしょう。前に大河出演経験があって、全日本プロレス社長を退いた武藤敬司さんが入れば面白いのですが。ネタバレのネタバレになりますが、TAKAみちのくさんとかもイメージにぴったりなのですが…(苦笑


 この印象は、実を言うと江戸時代からの鉄板イメージ。
 豊臣秀吉が百姓の倅から天下人まで成り上がった経緯をやや大袈裟に、江戸の庶民にもわかりやすい絵物語に仕立てた『絵本太閤記』の頃からのものです。

 豊臣秀吉の人気が赤丸急上昇で沸騰し、その生涯が一般の常識として定着したのはベストセラーになった『絵本太閤記』の挿絵や、江戸時代に流行した戦国武将の武人絵に描かれた蜂須賀正勝が『山賊や夜盗達の頭目、もしくは野武士集団の首領』として…"ぼさぼさの髪に顔いっぱいの髭、見上げるような巨漢"という容貌が一因にあることは、間違いないでしょう。

 この"野蛮で豪快なイメージ"がどれだけ世間に知れ渡っていたかは、明治維新の後に正勝の子孫・蜂須賀
(はちすか-もちあき)が宮中に参内した際、応接室にあった紙巻煙草を記念にと失敬したのを明治天皇に目撃されて

 『
蜂須賀、血は争えんのう。

 だなんて言われてしまった、ということなどから…庶民はおろか天皇陛下でも御存知の一般常識として通用していた話からも明らかなところです。
( ・(,,ェ)・) 蜂須賀正勝の嫡流は江戸時代に途絶えており、秋田佐竹家から養子を、次いで茂韶の父・斉裕が徳川将軍家から養子として入っているため、茂韶は遺伝子学的に言うと徳川家康の子孫です(天下盗人の子孫ならなるほど、なっとく!!)
 茂韶はよほど盗賊の子孫扱いがいやだったのか、当代でも最高の歴史学者だった渡辺世祐に先祖の身の上調査を依頼し、盗賊というわけではないというお墨付きを貰ったそうです。あと、明治天皇も蜂須賀正勝の子孫という笑えない事実があります。



 しかし、実際の蜂須賀正勝…彼が史料に残した実績や身分は、そんな野蛮で下卑な山賊大将とは大きくかけ
れています。

 蜂須賀正勝は『小柄で温和な人柄』という記録があり、野武士や山賊の頭領とされた肩書きも厳密には国人衆
(こくじんしゅう)、はやく言えば『特定の主君に仕えていない、半独立した武装勢力の大』。

 また、正勝が国人領主として本拠としていた蜂須賀郷の周囲は木曽川やその支流が入り組んでいました。
大きな河川は10tトラックや貨物列車が無かった戦国時代当時、物流の重要な拠点でもありました。
 正勝は欲の皮が突っ張った商人や斯波家・織田家などの武人領主と交渉や折衝に望み、時には理と利で詰んだ話術で相手を説き伏せ、時には麾下を引き連れて近隣大名の合戦に参加していました。

 粗暴で単純な山賊大将などとは大違いな、剛柔を使い分けた智謀と話術も駆使する有能な
士だったのです。

 荒事に望んでは多くの部下に慕われた親分肌と豪胆な気質を十二分に生かして武勲を挙げ、繊細な交渉術が必要とあれば単身敵方の重要人物方に乗り込み、難しい折衝を手堅く抑えてしまう優秀振りは、後に尾張国
(現愛知県西部)を統一した織田信長にも聞こえ、織田家に所属。


 次いで"木下藤吉郎"と呼ばれていた秀吉に協力して立身出世を影に日向に支え、秀吉の墨俣城築城や美濃国の武将・豪族達の誘降に尽力します。





 秀吉が命を賭けた金ヶ崎の退き口も同伴し、死線を越えて武勲でも貢献し…1573年(天正元年)、秀吉が遂に一国一城、北近江
(現滋賀県北東部)長浜城の城主に就任すると、家臣達では最高額となる3200石の俸禄で家臣筆頭に名を連ねました。
 このときの竹中半兵衛がの俸禄が1050石、秀吉の軍師と名高い半兵衛の三倍以上も報酬を約束されていることは、蜂須賀小六がどれだけ秀吉に信頼されているかを示すものです。


 秀吉が播磨国
(現兵庫県南部)姫路城に入り、織田軍団山陽道司令官に着任した後も順調に働きを重ね…本能寺の変の前年、1581年(天正九年)には信長より秀吉部下としては異例の播磨龍野万三千石を与えられ、戦国大名なみの地位まで登り詰めました。

 まだ秀吉麾下の一部将に過ぎなかった黒田官兵衛からすれば、余裕で雲の上なポジションです。

( ・(,,ェ)・) ぶっちゃけた話、この頃までの蜂須賀正勝の身分は『寄騎』(よりき)、つまりは本社からの出向社員であり信長直属の部下だったという説もありますが。

 戦国の覇者・織田信長が本能寺の変で紅蓮の炎に消えた後もその辣腕振りは衰えを知らず、すぐさま引き返して明智光秀を討つという秀吉のプラン『中国大返しの実現に全力を注ぎ…黒田官兵衛と共に備中高松城の開城交渉、毛利方の策士・小早川隆景との戦後交渉も短時間で秀吉有利に収めます。



 そして赤髭的に勲一等だと思うのは、まだ信長の死を受容できず、今後のビジョンに迷っている秀吉の背中を大きく押したこの一言。

      

 長年、秀吉と一緒に苦楽を共にした蜂須賀正勝でなければ吐けない台
です。


 この後、織田信長の後継者を決める清洲会議で秀吉有利に展開する事前交渉でも蜂須賀正勝は最大の決め手となった丹羽長秀の説得に成功し、長宗我部元親を討った四国征伐では阿波国の要衝・木津城
(現徳島県鳴門市)を攻略し、戦後は遂に阿波一国の太守に昇進。

 その栄誉の席は嫡男の蜂須賀家政に譲り、生涯の最後まで秀吉の右腕を勤め続けた正勝は1586年
(天正十四年)5月22日、大坂城の屋敷で世を去りました。


 その蜂須賀正勝が眠る徳島市の徳島城博物館では現在、『殿様の時代 -徳島藩主蜂須賀家の政治と文化』と題して、10月14日まで企画展が開催されています。

( ・(,,ェ)・) 勿論、投稿当時のお話です。今はやってませんよ?
 そこには、豊臣秀吉が百姓の倅から天下人、関白太政大臣まで上り詰める立身出世を支えたある男が身に着けていたという具足が展示されていますが…。


 研究者の推測によれば、その鎧を着て戦場を駆け抜けていった武将の身長は推定、
150cmほどだったのではないかということです―――。


( ・(,,ェ)・) 最後の余談になりますが、現在の蜂須賀家当主は第十七代当主・蜂須賀正子さん(72歳)。
  現在、正子さんはお子さんも養子さんもないそうで、このままだと蜂須賀家は断絶ということになるそうです。
他にも、大河『龍馬伝』で出演した俳優・声優の蜂須賀智隆さんも、系図不明ながら蜂須賀正勝の子孫なのだとか。


 次回更新は10/5〜10/6の予定です。乞う御期待!!


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"歴史痛"の看板に偽りなし?戦国トリビアシリーズ【第三十九夜】


JUGEMテーマ:コラム


 


 戦国与太噺。導入部、となぜ素直に命名出来ない。(画像は斬?スピリッツより)


■八月二十二日のトリビア

 来年の大河『軍師官兵衛』でも活躍が期待される
 『難波の太閤殿下』豊臣秀吉。受けた恩義は忘れ
 
ない人だが、恨みはもっと忘れない人だった。



■戦国の覇者・織田信長の衣鉢を継いだ猿面冠者の
 太閤殿下、豊臣秀吉が見せたもう一つの顔


 『竹中直人がNHK大河でまた秀吉役、「見飽きた」の声も』
というきのキャスティング情報、依然として当ブログの検索情報でも不動の一位を獲得していることからもかなりの潜在数を誇るであろう秀吉Fanの皆様も既にご存知の方は多いかとは思います。

 96年大河『秀吉』では個性的かつ躍動的な豊臣秀吉像を演じきった竹中さんの再登板、既に発表されている江口洋介さんの織田信長と並んだその顔はどういうものなのか…今から赤髭の期待感は急
昇しています。

 上記リンクでは見飽きただの安全牌だのと酷評されていますが、ここ数年は役満どころか振込みの連続、満貫の手ごたえすら掴めていない今のNHKが危険牌を振るわけもありませんし、"見飽きた"と論じる記者最大の認識不足は
『竹中さんはまだ、晩年の偏執と狂気に犯された豊臣秀吉の暗黒面を演じたことがない』ということ。


 もう十七年も前の話の事、記憶に無いorまだ生まれていなかったという歴史Fanの皆様に補足しておけば、96年大河『秀吉』は、豊臣秀吉が"天下統一を達成、めでたしめでたし…"という、人生最大の幸運を噛み締めながらも、一人さびしく大坂城内を歩く後姿…その後の人生の悲哀や渾沌をほのめかすような流れで締め。という終わり方をしていました。

 織田信長の後継者として天下統一事業を進めていくうち、明朗で闊達だった精神が蝕まれはじめ、孤高の独裁者となっていく秀吉の横顔。
 やっとのことで誕生した男児・鶴松の死に絶望し、自分を太陽の子と信じて二度も敢行した狂気の朝鮮出兵。一度は後継者に指名した甥の豊臣秀次を自害へ追いやり、挙句にその愛妾や子供たちまでをも酸鼻を極めるような惨たらしい方法で虐殺した…などなど、言わば『豊臣秀吉の暗黒面』。

 天衣無縫で才気煥発、器量も抜群だった"明るい"豊臣秀吉を演じた竹中さんが、天下人であるがゆえ心に宿した独裁者の狂気に病み、そして長年信頼していたはずの黒田官兵衛まで遠ざけていった猜疑心に囚われる様はどんなものなのか。
 大河『江』で好演した岸谷さんの秀吉とどんな違いを見せてくれるかが、視聴するにあたって楽しみなポイントになるのは間違いありません。
( ・(,,ェ)・) こんな面白い要素を見逃して何が"見飽きた"か。ふざけるのはゴシップ記事だけにしとけと小一時間問い詰めたい気分です、ええもう。

■太閤殿下の、過去を振り返るのを忘れない人柄とは

 さて、そんな豊臣秀吉の数多いエピソードから今夜御紹介するのは『過去の恩義は忘れない』というその温情的な一面…―――なのですが、戦国歴史Fanの諸兄姉が集う当ブログでこれについて、わざわざ詳しく御紹介するには及ばないでしょう。


 
    

 
故郷の尾張中村を飛び出して東海道を放浪していたとき、初めて秀吉の器量を見抜き武家勤めのイロハを教え、寵愛した遠江国(元静岡県西部)の戦国武将・松下加兵衛が戦乱の末に没落したのを太閤になってから大坂に招き、過去に受けた恩義に報いるため遠江久野・一万六千石の大名に帰り咲かせた話。

 『闘わずして勝つ兵法・謀略戦の重要さ、その基盤には入念な情報収集が不可欠である』という認識を植え付け、そのノウハウを野武士暮らしで叩き込み、戦国武将・豊臣秀吉の素養を育んだ名参謀・蜂須賀小六を四国征伐後に阿波国
(現徳島県)二十五万石の太守に据え、長年にわたって苦楽を共にしてくれた働きを激賞した話。


    


 
"秀吉"という名を授けたとされる南近江国(現滋賀県南部)の戦国大名・六角義秀、その遠縁にあたる六角義治が浪人同様の惨めな暮らしだと聞けば、御伽衆(おとぎしゅう、無学だった秀吉に知恵を授ける参謀・兼話し相手)として召抱え、後に愛息・豊臣秀頼の弓術師範に据えた話。

 などなど…元から高貴な身分だった織田信長や武田信玄とは違い、身分が卑賤で貧乏な放浪時代を経験している秀吉には、太閤に成り上がって以降に昔の恩人を救済したという話が枚挙に暇がありません。

■けど、恩義に必ず報いるという性格…逆に言えば?
 しかし、良く良く考えてもみれば『昔の恩は忘れない』という事は…裏を返せば『昔の恨みもしっかり覚えてる』ということ。
 いくら豊臣秀吉が器量に恵まれた戦国武将の申し子であっても、誰彼なしに好かれたわけでもないでしょうし…何よりその矮小な背丈と貧弱な体つき、猿と思えば人だったと揶揄された醜悪な容貌と小ざかしい性格は、随分と嫌われもしたようです。

 例えば、尾張国中村を飛び出して松下加兵衛に出会うまでの放浪時代。
 路銀として母親や姉から貰った永楽銭で縫い針を買い、それを行商しながら東海道を下った秀吉でしたが…どうやらその途中、三河国
(現愛知県東部)あたりで完全にお金が尽きてしまった模様。

 仕方なく、田んぼの畦に入り込んで泥鰌を取って売ろうとしたところ、この田んぼの所有者であった地侍・河合善右衛門に見つかってしまい、ひと悶着。

 色々と言い訳はしたものの、結局はこっぴどく殴り倒されて折檻を受けたそうなのですが…――この泥鰌泥棒が後年、まさかの一発逆転。あれよあれよの間に戦国武将の檜舞台へ躍り出て、三河国の戦国大名だった徳川家康すらも従わせる天下人へ大出世したからサァ大変。

 太閤殿下、家康の配下が大坂城へ来るたびに聞いていたそうです。『三河国に河合という武士があったはずだが、今はどうしている?』と。

 しかし、秀吉の恩人達が没落していたように河合善右衛門も戦乱に倒れて世を去っており、その子孫達も徳川家康は勿論、その家臣達すら行方が知れない状態になっていたらしく…誰に聞いても返事は『いえ、その者は
くなっていますし、親類縁者もどこにいるやら…』というもの。

残念だ、その者が今も健在であれば昔の話をしてやるのに』と、豊臣秀吉が悔しがったという話が『武功雑記』に収められています。
 ちなみに秀吉、このことを聞いていない家康の家臣が来ると必ず、執拗に問い合わせしていたようですから…生きていたらどうなっていたのやら。
(;-(,,ェ)-) いやぁ、まぁ…鼻そいで耳そいで、六条河原で晒し首なのはまぁ間違いなかったでしょうね、晩年の太閤殿下は鬼畜生ですし。

■尾張中村よ、私は帰って来た!! 逆襲のサル。
 また、太閤殿下が天下統一事業で最後の決戦とした1590年の小田原北条家討伐の際には、久方振りに故郷の尾張国を通過したとき、不意に昔のことを思い出したらしく…豊臣家五大老だった小早川隆景に怒り心頭な御様子で咆哮。

昔、尾張中村で暮らしていたころ"王"なるガキ大将からいっつも酷い目にあわされてた!! 天下人たる余を愚弄する振る舞い、許しがたい!!
 隆景、"仁王"を探し出して我が前に引っ立てて参れ!!!

(;-(,,ェ)-) いや、太閤殿下…それってたぶん、四十年以上前の恨みですよね?しかも子供時代の。

 こんな無茶振り甚だしい命令でも、律儀に果たしてしまうのが小早川隆景。さっそく尾張国中村に家臣を派遣して問い合わせをさせたところ…――先述の河合さんとは違って不運なことに、"
王"は健在で今も尾張中村で農民として暮らしていることがわかってしまいました。

 しかし、昔は傍若無人なガキ大将だった仁王も今となっては総髪が白く染まった好々爺。孫も子もいる御老人になっていました。
 事の次第を聞くや顔面蒼白、隆景の前で涙を流して土下座の上での命乞いを始めます。まさか、昔虐めてた近所の猿顔した生意気盛りが戦国乱世でも一番の勝ち組になってて、四十年越しの復讐を挑んできたとか予想外も良いところです。

 家族も揃って小早川隆景の前に平伏して死罪だけは御勘弁をと涙声の大合唱。

 

 毛利元就より『家族兄弟は一致団結して困難にあたるべし』と三本の矢の薫陶を受けている小早川隆景、さすがにこれは気の毒だと思ったのでしょうか…――太閤殿下には『もう仁王とその子供達は死んでしまって久しく、一家は離散していました』と報告したそうです。

 優秀な後輩や部下が居るという方は、扱いには重々御注意下さい…と、そんなお話でした。

( ・(,,ェ)・) 他にも尾張中村には秀吉を虐めた世帯があったらしく、太閤出生の地として年貢が免除されていた中村にあってその家族がある集落だけは年貢免除を認めないという沙汰を出したところ、その集落より『その者は死にました』との報告。

 『じゃあそいつの子供は居るか!!』と秀吉が言い返したところ、『子供は死んで孫の世代になってます!!カンベンしてやってください!!!』と集落より返事があり、『孫の世代じゃ、しかたないな』とようやく年貢免除を認めてあげた、なんて話が残っています。執念足り過ぎです、太閤殿下。

 次回更新は8/26〜8/27の予定です。乞う御期待!!

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